第二セット
私の胸の奥で、あの名状しがたい「影」が、ほんの少しだけ、その存在を主張したような気がした。
それは、勝利への渇望と、それを達成するために私が選択する「異端」の道が、常に危険と隣り合わせであることの、無意識の警告なのかもしれない。
「し、しおりさん…! 今の、一体…!?」
控え場所で見ていた三島さんの、上ずった声が、かろうじて私の耳に届く。
彼女のノートには、今の一球が、一体どのように記録されるのだろうか。
高橋選手は、まだ動けないでいた。その表情からは、この不可解な失点に対する怒りや悔しさよりも、むしろ
「何が起こったのか理解できない」という純粋な困惑の方が強く感じられる。
…彼女の思考は、今、完全に停止している。この状況を利用しない手はない。
私のサーブ。
私は、あえて先ほどと同じ、裏ソフトの面を見せる構えを取る。
彼女の視線が、私のラケットに、そして私の無表情な顔に、突き刺さるように注がれる。
彼女は、次に私が何を仕掛けてくるのか、必死に読み解こうとしている。
その時だった。
ふと、私の思考に、全く関係のない情報が紛れ込んできた。
…__おりさんの卓球ってす_い、_麗だなってそう思__……
…ノイズだ。思考の、ノイズ。試合中に、このような無関係な情報を想起するのは、非効率的であり、集中力を散漫にさせる要因となる。排除しなければ。
しかし、その「ノイズ」は、まるで私の思考回路にこびりついたガムのように、簡単には消えてくれない。
あの時の、部長の人間臭い「隙」。
あかねさんの、私に対する純粋な好奇心と気遣い。それらが、私の「静寂な世界」の壁に、小さな、しかし無視できない波紋を広げ続けている。
…人間関係という変数は、やはり複雑で、私の分析モデルでは完全には予測できない。
そして、その予測不能性が、私の集中を…
一瞬、私の意識が、目の前の試合から、ほんのわずかに逸れた。
その刹那の隙を、高橋選手は見逃さなかった。
私が、ほんのわずかに思考を別の場所へ飛ばし、サーブがコンマ数ミリ甘くなった瞬間。
彼女は、まるで獣のような鋭い踏み込みで前に出て、私のサーブに対し、バックハンドで強烈なフリックを、私のフォアサイド深くに叩き込んできた!
…しまった!
反応が、コンマ数秒遅れた。私の体が、硬直する。ボールは、私のラケットに触れることなく、コートの端を高速で駆け抜けていった。
静寂 9 - 9 高橋
…エラー。
原因は、私の集中力の低下。
外的要因ではなく、内的要因によるもの。あの「ノイズ」が、私の判断を鈍らせた。
私は、表情を変えずに、しかし内心では、この失点の原因を徹底的に分析していた。高橋選手は、ポイントを取ったことで息を吹き返し、その瞳に再び闘志の炎を宿らせている。
…まずい。流れが、相手に傾きつつある。
思考を、強制的に卓球へと引き戻す。目の前の相手、ボール、コート。
それ以外の全てを、再び意識の外へと追いやる。
だが、一度入り込んだ「ノイズ」は、そう簡単には消えない。
私の「静寂な世界」の壁に刻まれた、小さな亀裂。そこから、これまでとは異なる種類の「何か」が、染み出してくるような感覚。
それは、恐怖か? 焦りか? それとも…。
私は、深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。
大丈夫だ。私は、私の卓球をするだけだ。
勝利こそが、全てを証明する。
体育館の空気が、まるで圧縮されたかのように重い。
高橋選手は、先ほどの私の奇策の残像を振り払うかのように、集中力を高め、鋭い視線で私を見据えている。
彼女の瞳からは、闘志と、勝利への執念が渦巻いている。
高橋選手が放ったサーブは、私のフォア側へ、低く、速く、そして強烈な横下回転がかかった、非常に質の高いサーブだった。
彼女の勝負サーブの一つだろう。
私は、ラケットを裏ソフトの面に持ち替え、体勢を低くし、そのサーブに対して、同じく強烈な下回転をかけたツッツキで、彼女のバックサイド深くに、低く、そしてコースギリギリに返球した。
回転の応酬。わずかでも浮けば、即座に強打される危険な駆け引きだ。
高橋選手は、その厳しいツッツキに対して、体勢を崩さずにバックハンドドライブを仕掛けてきた。
ボールは、強烈なトップスピンを伴い、私のフォアサイドへと唸りを上げて飛んでくる。
…やはり、攻めてくる!
私は、床に倒れ込むような低い姿勢になりつつも、ラケットをスーパーアンチの面に瞬時に持ち替え、体の遠くで、ボールの威力を殺すように面を合わせた。
それは、最後の砦としての「壁」のようなもの。ボールは、アンチラバーの特性で回転を失い、ふわりと、しかしネットぎりぎりの高さで相手コートのミドルへと返っていく。
「!?」
高橋選手は、その執念の返球に対して、さらに踏み込み、フォアハンドで強打を仕掛けてきた。ボールは、私のバックサイドを鋭く襲う!
私は、床を蹴り、文字通り転がるようにしてボールに追いつく。
今度は裏ソフトの面、美しいフォームなど意識せず、効率の元に切り捨てる。
ただ、ボールを相手コートに返す、その一点に全ての神経を集中させる。
まるで部長との練習の再現だ。
ラケットの先端に辛うじて引っかかったボールは、高い山なりのループドライブとなって、ゆっくりと相手コートのバックサイド深くに、時間を稼ぐようにして向かう。
それは、彼女のミスを誘うための、計算された「粘りの一球」
「せぇあ!」
高橋選手は、その山なりのボールを、頂点に達する前にライジングで捉え、強烈なスマッシュを私のフォアサイドへ打ち込んできた。
確実に、このラリーを終わらせようという意志のこもった一打だ。
…フォアサイド。厳しい。だが、コースは読めている!
私は、最後の力を振り絞って、飛び込む込むように、再びスーパーアンチの面でそのスマッシュのコースに入った。ボールの威力にラケットがしなった気がする。
…ここだ…!
ボールは、バックハンドに構えている私のアンチラバーに、吸い込まれるように当たり勢いを失い、不規則なナックルとなって、返球される、その白球はネットの白帯に触れ、コロコロと…相手コートへと、力なく転がり落ちた。
静寂 10 - 9 高橋
セットポイント、私だ!
「う…うそ…」
高橋選手は、信じられないという表情で、ネット際に力なく落ちたボールを見つめている。彼女の顔には、疲労の色と、そして何よりも、私の執念に対する驚愕の色が浮かんでいた。
見ていた観客や選手たちも、息をのんだまま、声も出せないでいる。
…返した、あと、一点。この粘りで、彼女の精神は確実に揺らいだはず。
セットポイント。
私の目の前で、高橋選手が深く息を吸い込み、サーブの構えに入る。体育館の喧騒が、まるで水中にいるかのように遠く、くぐもって聞こえる。
彼女の瞳には、この一点に全てを懸けるという、強い決意の色が浮かんでいた。
彼女の纏う靄もまた、極限の集中を示すように、一点へと収束していくのが見て取れる。
…この状況での彼女のサーブの選択肢は、主に三つ。一つ、私のフォアを狙った速いロングサーブで意表を突く。
二つ、私のバックサイド深くに、回転量の多い下回転サーブを送り、私の持ち替えを誘い、甘くなった返球を狙う。
三つ、最も可能性が高いのは、ネット際に短く、しかし質の高いショートサーブを出し、私のマルチプル・ストップを封じ、台上での捌きあいに持ち込むこと。
私の脳は、瞬時に確率を計算し、それぞれの選択肢に対する最適な対応をシミュレートする。
高橋選手が、トスを上げた。
そして、彼女が選択したのは-----私の予測通り、三つ目の選択肢。
私のフォア側へ、低く、短く、そして強い下回転がかかった、非常に質の高いショートサーブだった。
彼女は、私がネット際の変化球を狙ってくることを警戒し、あえて同じ土俵で勝負を挑んできたのだ。
このボールを私が中途半端にストップすれば、彼女はすかさず3球目攻撃を仕掛けてくるだろう。
…私のマルチプル・ストップ戦略を警戒し、あえて同じ土俵へ。
これはラリー戦で勝負を決めようという意図か、合理的で、そして勇気のある選択だ。
だが、その思考は、私の予測の範囲内。
そして、彼女の思考の、さらにその先を読む。
私は、その強烈な下回転ショートサーブに対し、ラケットをスーパーアンチの面に持ち替えた。
モーションは、先ほど彼女の思考をフリーズさせたデッドストップ・サイドスピンを繰り出す時と、全く同じように見えるはずだ。
彼女の体が、あの予測不能な変化を警戒し、わずかに硬直するのが分かった。
しかし、私がラケット面でボールに触れる瞬間――私の指先は、あの複雑な変化を生み出すための微細な操作を、一切行わなかった。
ただ、ごく普通に、スーパーアンチの特性を活かして、ボールの回転を殺し、何の変哲もない、ただの平凡なナックル性のストップを、彼女のフォア前に、短く、そして静かに返球した。
それは、あまりにも「普通」で、「単純」で、そして「素朴」な返球だった。
先ほどまでの、私の繰り出す変幻自在で予測不能な「異端」の技の数々を警戒し、思考を最大限に巡らせていた高橋選手にとって、このあまりにも「普通すぎる」一球は、逆に、最大の意表を突く一打となった。
「…………え?」
高橋選手の動きが、完全に止まった。
彼女の脳裏には、おそらく、私が繰り出すであろう無数の「異端」のストップのパターンが渦巻いていたのだろう。
鋭く横に切れる変化、ネット際に死んだように落ちるナックル、あるいは意表を突く攻撃的なプッシュ…。その全てを警戒し、対応しようと身構えていたはずだ。
しかし、彼女の目の前に返ってきたのは、そのどれでもない、あまりにも「普通」で、「平凡」なストップだった。
その「普通さ」が、彼女の全ての予測と準備を無に帰し、思考を完全にフリーズさせた。
複雑な計算式の最後に、あまりにも単純な「1+1=2」という答えを突き付けられたかのような、強烈な肩透かし。
彼女は、そのボールに対して、どう反応していいのか、瞬時に判断できなかった。一瞬の判断の遅れが卓球では命取りになる。
甘く返球された白い球体を、私はトドメとばかりにスマッシュした。
バチンッ
スマッシュの打球音が消え、体育館の全ての音が、本当に消え去ったかのような、絶対的な静寂。
静寂 11 - 9 高橋
セットカウント 静寂 2 - 0 高橋




