大会前夜
体育館の床を叩くボールの音、部員たちの掛け声、そして部長の檄。
それらが渾然一体となった熱気も、県大会を明日に控えた今日は、いつもより早く静寂へと変わった。各自、最後の調整を終え、決戦の日に備えるためだ。
部室で着替えを終え、一人、帰り支度をしていると、あかねさんがそっと近づいてきた。
その手には、いつものノートではなく、小さな布製の袋が握られている。
「しおりさん…これ、よかったら」
彼女が差し出したのは、丁寧に作られた、卓球のラケットとボールの形を模した小さなお守りだった。
不器用だが、心のこもっているのが分かる。
「…お守り、ですか」
「うん。気休めかもしれないけど…でも、私、しおりさんと部長先輩に、どうしても県大会で勝ってほしくて。応援してるって、伝えたくて。」
彼女の大きな瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
その純粋な好意は、私の心の壁を、ほんの少しだけ、しかし確実に透過してくる。
「…ありがとうございます、あかねさん。ですが、私は運や偶然といった不確定要素には依存しません。勝利は、徹底的な分析と、それを実行する技術によってのみもたらされるものですから」
私の口から出たのは、いつものように冷静で、どこか突き放したような言葉だった。
しかし、その言葉とは裏腹に、私の手は、無意識のうちにその小さなお守りを受け取っていた。
その布の温もりが、意外なほど心地よい。
三島さんは、私の言葉に一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの明るい笑顔に戻った。
「そっか! しおりさんらしいね! でも、もし、ほんのちょっとでも、ラッキーが味方してくれたら、もっとすごいことになると思わない?」
彼女のその、どこまでも前向きな思考は、私の理解を超えている。だが、不思議と不快ではない。
「…確率論的に言えば、完全に否定できるものではありませんね。微量な外的要因が、結果に影響を与える可能性は常に存在します」
私は、そう答えながら、お守りをそっとカバンにしまった。
それは、私の合理的な思考とは矛盾する行動だったかもしれない。
「えへへ。じゃあ、明日の県大会、頑張ってね! 私、全力で応援するから!」
あかねさんは、そう言って元気に手を振ると、他の部員たちと共に帰っていった。
一人残された私は、夕闇に包まれ始めた道を、静かに家路へとたどる。
彼女の言葉「綺麗だなって、私、思うんです」という、あの練習試合の後の言葉が、ふと脳裏をよぎる。そして、今日の「ラッキーが味方してくれたら」という言葉。
私の卓球は、勝利のための、冷徹な計算と技術の集積だ。
そこに、「綺麗」とか「ラッキー」といった、曖昧で非論理的な要素が入り込む余地はないはずだ。
だが…。
自宅に戻り、最後のラケットの手入れをする。
スーパーアンチラバーの表面を丁寧に拭き、裏ソフトラバーの粘着性を確かめる。
私の「異端」の武器たち。
明日の戦いで、これらがどのように機能するのか。私の分析通りに、相手を翻弄し、勝利をもたらすことができるのか。
ベッドに入り、目を閉じても、なかなか寝付けなかった。
頭の中では、無数の戦術シミュレーションが繰り返され、そして時折、昼間のあかねさんの笑顔や、部長の「お前は本当に人間離れしてるぜ」という、呆れと感嘆の混じった声が蘇る。
それは、私の「静寂な世界」に、これまで存在しなかった種類の「色」や「音」が、少しずつ混じり始めているような感覚だった。
そして、その感覚は、私の心の奥底に眠る、あの冷たい「何か」を、ほんのわずかに刺激する。
それは、具体的な「悪夢」の形はとらない。だが、言いようのない不安感、現実世界の輪郭がぼやけるような、浮遊感にも似た感覚。
勝利への渇望が強まれば強まるほど、その「何か」もまた、濃くなっていくような気がした。
…大丈夫だ。
私は、私の卓球をするだけだ。勝利こそが、全てを証明する。
私は、自分にそう言い聞かせ、強制的に思考をシャットダウンする。
深い眠りではない。しかし、体は休息を求めている。
翌朝
窓から差し込む朝日は、いつもよりも鋭く、そして決戦の日を告げるかのように力強い。
私は、静かに身支度を整える。ラケットケースを手に取り、玄関のドアを開ける。
外の空気は、ひんやりとしていて、私の高ぶる神経をわずかに鎮めてくれる。
…行くか。
私の心は、静かな闘志と、そして、ほんのわずかな、名状しがたい「影」を抱えながら、県大会の会場へと向かっていた。
私の「異端の白球」が、今日、どのような軌跡を描くのか。それはまだ、誰にも分からない。
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