お泊まり会 Side しおり (2)
「…だって私が書いた願い事は『あおの願いが、叶いますように』だったから」
私のその言葉に、隣に横たわる、あおの気配が、凍りついたのが分かった。
そして彼女は、尋ねてきたのだ。
なぜ、自分の願い事を、書かなかったのかと。
その、あまりにも、純粋な問い。
それは、私がずっと、蓋をし続けてきた、パンドラの箱を、開ける鍵だった。
「……その頃は、私には、そんな余裕、なかったからね」
私の声から、全ての感情が、消え去る。
そして私は、ぽつりぽつりと、語り始めたのだ。
私の、本当の過去を。
あの、地獄のような日々を。
私が、誰にも話したことのない、本当の痛みを。
父が、投げつけたビール瓶。
割れたガラスの、鋭い切れ味。
洗面台で、水に顔を、当てられ、窒息しそうになった、あの苦しみ。
空気を求めるように吸った物が、水だった時の、苦しさと絶望感。
そして何よりも、辛かったのは、お母さんのこと。
自分を、守るために、父の側に、つきそして私に、告げた、あの言葉。
『もしこのことが、誰かにバレたら、あおも、巻き込む』と。
私は淡々と、事実だけを語る。
まるで、他人事のように。
そうでも、しなければ、私の、心が、また、壊れてしまいそうだったから。
隣で、葵が、息を、のむ、気配がする。
彼女の、嗚咽が、聞こえる。
そうだ。
あなたは、優しいから。
きっと、私の痛みを、自分のことのように感じて、泣いてくれるのだろう。
(…ごめんねあお。こんな話を、して)
(でも、あなたには知ってほしかった。私がなぜあなたを、突き放さなければ、ならなかったのか、その、本当の理由を)
私は静かに、そして、唐突に言った。
その、声には、何の、感情もない。
「…あお。この服、めくって、いいよ」
私の話は、伝え方が、いつも欠けている。
「え…?」
彼女の、戸惑う声。
私は、彼女の方へと向き直り、そのガラス玉みたいな、瞳をじっと、見つめた。
有無を言わせぬ、瞳で。
彼女は、吸い寄せられるように、私に近づいてきた。
そして、震える手で、私のその、黒いロリータ服の裾を、そっと摘んだ。
恐る恐る、服を、めくる。
そして、彼女は見てしまったのだ。
私のその、雪のように、白い背中。
そこに広がっていたのは、包丁やカッター、ビール瓶の破片で、切りつけられた、細く、そして、おびただしい数の、傷跡がある。
それは、私が耐えてきた、地獄の歴史、そのものだった。
「…………ああ…っ」
彼女の口から、悲鳴とも、嗚咽ともつかない声が、漏れる。
涙が、止まらない。
彼女は、その場で、泣き崩れた。
------ごめんね、しおり。
------何も知らずに、あなたを、救うだなんて、言って。
------一番辛かったのは、あなたなのに。
彼女のその、心の叫びが、痛いほど、伝わってくる。
私はそっと彼女に近づき、隣に座った。
そしてその、小さな手で、彼女の頭を、優しく撫でてあげた。
昔、彼女が泣いていた時に、私が、したのと、全く同じように。
「…もう、終わったことだから、大丈夫だよ、あお」
その声は、自分でも驚くほど、どこまでも穏やかで、そして、優しい声だった。
彼女は、私の胸に、顔をうずめ、そして、子供のように、声を上げて、泣き続けた。
その涙が、私の心の氷を、ゆっくりと、しかし、確実に、溶かしていく。
この夜が、明けるまで、まだ、時間は、かかりそうだ。
だがその夜の暗闇も、二人でいれば心地いい。