黒い正義
しおりちゃんがブロック大会で優勝してから、時は過ぎ、私たちは冬休みに入ろうとしていた。
彼女は、あの後、まるで憑き物が落ちたかのように、少しずつだけど、確かに変わってきている。
時折、昔のように他愛のない話で笑ったり、葵さんと楽しそうに話している姿を見ると、私の胸も、温かくなる。
でも、その一方で。
彼女を取り巻く空気は、決して良いものでは、なかった。
「魔女」だの「残酷だ」のという、心ない噂。
そして、あの切り裂かれた、ラケット。
なくなる私物。
誰が何のために、あんなひどいことを…。
私の心の中には、ずっと黒い、もやもやとした不安が、渦巻いていた。
終業式が終わった時、その不安は、ついに最悪の形で、現実のものとなる。
私が、いつものように、しおりちゃんに、声をかけようと近づこうとした、その時だった。
しおりちゃんの前に、一人の女子生徒が、すっと立ち塞がった。
青木れいかさんだった。
彼女は、周りの取り巻きを従え、そしていつも通りの完璧な笑顔で、しおりちゃんに話しかけている。
だが、その瞳の奥には、冷たい光が宿っていた。
しおりちゃんは、表情一つ変えずに、彼女を見つめ返している。
やがてれいかさんは、しおりちゃんを、屋上へと続く階段の方へと、手招きした。
二人だけの話がある、ということらしい。
その光景を見て、私の胸の中で、警報が鳴り響いた。
(…ダメだ。嫌な予感がする…!)
私は、れいかさんにバレないように、そっと二人の後をつけた。
そして、踊り場の物陰に隠れ、息を殺して、二人の会話に、耳を澄ませる。
そこで、私は聞いてしまったのだ。
この物語の、全ての真相を。
「…静寂さん。あなたが最近周りから、色々言われて、大変だって聞いたから。心配で声をかけたの」
れいかさんは、どこまでも優しい声色で、そう言った。
だが、その言葉の裏に潜む、冷たい刃に、私は気づいてしまった。
「単刀直入に、言うわね」
彼女は、続けた。
「あなたについての、悪い噂を流しているのは、私よ」
「県大会の時の作戦メモの漏洩も、この前の、あなたのラケットを壊したのも、全て、私と、私の仲間たちの仕業」
その、あまりにも衝撃的な告白。
私は、口を手で塞ぎ、悲鳴を上げるのを、なんとか堪えた。
「どうして…?」
しおりちゃんの、静かな問い。
れいかさんは、心底不思議そうに、首を傾げた。
「どうして、って…。あなたのためを思ってに、決まってるじゃない」
「あなたは異端だから。周りと、馴染もうとしないから。だから、私が、正してあげようと、思ったのよ。少し手荒な方法だったかもしれないけど」
そして彼女は、まるで慈悲深い女王が、罪人に恩赦を与えるかのように、言った。
「もし、あなたが、卓球を辞めてくれるなら、噂は綺麗に消してあげる。 それどころか、クラスの中心へと、引き立ててあげてもいいわ。」
「これは、私からの最大限の譲歩よ。悪い、話じゃないでしょ?」
その、あまりにも独善的で、そして歪んだ正義。
私は、怒りで体が震えた。
だが、しおりちゃんは違った。
彼女は、その、れいかさんの言葉に、表情一つ変えずに、ただ静かに、そして冷たく、一言だけ告げたのだ。
「――余計な、お世話です」
その、たった一言。
それが、二人の会話の終わりを、告げた。
れいかさんの顔が、怒りと屈辱に、歪む。
そして彼女は「…そう。後悔しても、知らないわよ」と、捨て台詞を吐き、その場を立ち去っていった。
後に残されたのは、私としおりちゃん、二人だけ。
私は、物陰から飛び出し、彼女の元へと駆け寄った。
「しおりちゃん…!今の人…!」
「…ええ。全て、聞かれていたようですね、あかねさん」
彼女は、そう言って、初めて私の方を向き、そしてほんの少しだけ、困ったように微笑んだ。
私の本当の戦いは、もはやコートの中だけでは、なかった。
この見えない悪意から、どうやって彼女を守ればいいのか。
その答えの出ない問いだけが、私の胸の中に重く、のしかかっていた。