予測不能の魔女から、一人の少女へ
ブロック大会、準決勝。
私の目の前に、再び、あの少女が立った。
第五中学、静寂しおり。
県大会の決勝で、私のあの、完璧なはずだった「フロー状態」を打ち破り、私に敗北という二文字を、突きつけた存在。
(…静寂しおり)
彼女を研究し、分析すればするほど、その卓球は、常軌を逸していた。
「予測不能の魔女」
その二つ名は、伊達ではない。
だが私もまた、常勝学園の女王と呼ばれている存在。
同じ相手に、二度も負けるわけにはいかない。
試合が、始まった。
第一セットは、私が取った。県大会のリベンジだ。
だが第二セット。彼女はまたしても、私の予測を超えてきた。
情報が漏洩している、という絶望的な状況下で、彼女は、これまで見せたことのない「粘り」と「王道」の卓球で、私に食らいついてきた。
セットカウント1-1。
そして、運命の第三セット。
4-0と私が、リードした、あの瞬間だった。
彼女が壊れた。
いや、違う。
彼女は生まれたのだ。
それまで、私と戦っていた「予測不能の魔女」は、消え去った。
代わりに、私の前に現れたのは、ただ純粋に、そして楽しそうに、ボールを打ち返す、一人の卓球好きな少女。
その一球一球には、これまでの、どのボールよりも、温かく、そし重い「想い」が、乗っていた。
私の完璧な「フロー状態」が、そのあまりにも人間的なボールの前に、完全に崩壊していく。
結果は私の敗北。
だが、不思議と悔しさはなかった。
むしろ、私の心の中には、清々しい感情と、そして彼女への、純粋な興味だけが残っていた。
あんな楽しそうに、試合を、それもブロック大会という大舞台でする選手は、初めてだったから。
その日の夜。青木家の自室。
私はベッドの上で、今日の試合のビデオを、何度も何度も、見返していた。
そこに、ノックの音と共に、妹のれいかが入ってくる。
「お姉ちゃん、今日の試合お疲れ様。…残念だったね」
その声には、私を慰める響きの奥に、ほんのわずかな、しかし、確かに喜びの色が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。
私は、ビデオを止め、そして彼女に向き直った。
「いいえ、れいか。私は負けたけれど、少しも残念だとは思っていないわ」
「え…?」
「むしろ、今日の試合で、私は素晴らしい選手と、出会うことができた。そう思っている」
私は、続ける。
「静寂しおりさん。彼女のことを、これまでは『異端者』や『予測不能の魔女』というレッテルでしか見ていなかった。 でも違った。今日の彼女は、ただの卓球が大好きな、一人の女の子だったわ。本当に楽しそうにボールを打つの。その姿を見て、私も、なんだか嬉しくなってしまった」
「…だから、私はまた、彼女と卓球がしたい。今度はもっと純粋に、お互いの全てをぶつけ合ってみたい、と、そう思っているの」
私の、その言葉。
それを聞いた、れいかの表情が、すっと凍りついた。
彼女の瞳の奥に、暗くらそして冷たい炎が灯る。
私が、ずっと気づかないふりをしていた、彼女の心の闇。
「……そう、なんだ。お姉ちゃんは、あの子のこと、そんな風に、思ってたんだね」
れいかは、表向きは、相槌をうっていた。
しかし、その声は、明らかに震えていた。
(…なぜ?)
彼女の心の中で、黒い感情が、渦巻いている。
(なぜ、私じゃないの?)
(なぜ、あんな不気味で、クラスからも孤立している異端者が、お姉ちゃんに認められて、この私…クラスの中心で、誰よりも努力している私が、認められないの?)
そのあまりにも痛々しい、苛立ちと、嫉妬の炎。
私は、それに気づきながらも、何も言えなかった。
これは、私と彼女との問題。
そこに、静寂しおりさんを、巻き込むわけにはいかない。
私たちの間に、深い深い溝が、生まれていくのを、感じていた。
そして、その溝が、この後、取り返しのつかない、悲劇を生むことになるということを、私はまだ、知らなかった。