異端者を守る幽基の原点
私は、ただこうやって、あなたの隣を歩き続ける。
…一人の、「友達」として。
やがて、分かれ道にさしかかる。 私の家へと向かう、駅への道と、彼女の家へと続く道。
「しおりさん。では、私はこちらですので」 私が、そう言って頭を下げると、彼女は静かに、こちらを見つめ返してきた。
その、紫の瞳の奥の色が、ほんの少しだけ揺らいだような気がした。 それは、別れを惜しむ色だろうか。
あるいは、一人になることへの、ほんのわずかな不安だろうか。
今の私には、まだそれを、正確に分析することは、できない。
「…はい。未来さん、今日は、ありがとうございました」
彼女はそう言って、頭を下げた。 その言葉には、いつもの、無機質な響きではなく、確かに、温かい何かが込められていた。
「いえ。こちらこそ」
私もまた、頭を下げ、そして、彼女に背を向けた。
駅へと向かう、私の背中に、彼女の視線が、ずっと注がれているのを、感じていた。
電車に乗り込み、空いている席に腰を下ろす。
ガタンゴトン
規則正しい揺れと、窓の外を流れていく夜景。
その光の粒を、ぼんやりと眺めながら、私は、しおりさんとの初めての試合を、一人静かに、振り返っていた。
(…静寂しおりさん…)
県大会、準々決勝。
あの時、私の手の中には、コーチが用意してくれた、彼女の完璧なはずだった、作戦メモがあった。
私はその「情報」という武器を手に、彼女の思考を読み、その戦術を支配していた、はずだった。
第一ゲームは、そのシミュレーション通りに進んだ。
だが、第二ゲームから、彼女は変わった。
いや、違う。
彼女は、「捨てた」のだ。
自らの、最も得意とする、アンチラバーという「異端」の武器を。
そして彼女が選択したのは、あまりにも真っ直ぐな、そして、あまりにも純粋な「王道」のドライブ戦だった。
それは私の思考の、完全に外側にあった一手。
私の全ての分析、全てのデータが、意味をなさなくなった瞬間、彼女は私の土俵に上がってカット戦を挑んできたのだ。
あの時、私は確かに感じた。
卓球台を挟んで彼女と、私との間で行われていた、「対話」の言語そのものが、根底から覆される、その瞬間を。
私が用意した、完璧なはずだった「問いかけ」
それに対し、彼女は、全く違う言語で、私に「解」を、突きつけてきた。
私は、そのあまりにも美しく、そして残酷なまでの、彼女の「解」の前に敗れた。
(…すごい、人だ)
だが、私の心を本当に揺さぶったのは、試合の結果ではなかった。
コーチの、不正。
そして、その事実を知った上で、私が、彼女たちに全てを打ち明けた時のこと。
私は、罵倒されることを覚悟していた。軽蔑されることも。
なのに、彼らは、私を責めなかった。
顧問の先生も、部長さんも、あかねさんも、そしてしおりさん自身も。
彼らは、私のその拙い告白を、ただ静かに受け止め、そして、私のそのスポーツマンシップを称えてくれた。
第五中学校。
あのチームに、流れている空気。
それは、強豪校である月影女学院には、決してない、温かい、そしてどこか人間臭い、光だった。
(…私も、あんな場所で、卓球ができたら…)
(…私も、あんな仲間たちと、一緒に戦えたら…)
私の心の中に、これまで、感じたことのない、ほんのりとした温かい光と、そして、ほんの少しの「憧れ」のような感情が、芽生え始めていた。
ガタンゴトン
電車が揺れる。
私は、窓に映る、自分の顔を見た。
何の幸運か、私は、その憧れだった第五中学校で卓球をやらせて貰っている。
(静寂しおりさん…)
私はもう一度、彼女の名前を、心の中で呟く。
(あなたのその「異端」の奥底にある、本当の秘密を。そして、あなたのその、氷の仮面の下の飾らない心を、私は、もっともっと、知りたい)
私の「異端の白球」との戦いは、あの日終わった。
しかし、私の本当の「対話」は、ここから始まるのかもしれない。
そして、その対話の先に、もし、しおりさんの落ち着ける場所が、あるのなら…、私は何度でも言葉を尽くす。
そんな思いを、胸に抱きながら、私は静かに、目を閉じた。
電車の、心地の良い揺れだけが、私の新しい決意を、優しく、後押ししてくれているようだった。