新たな翼
俺は、このあまりにも複雑で、そして、危うい天才の隣に、立ち続けることができるのだろうか。
部長の、その心の、声など、知る由もなく。
私は、ラバーを持ったまま、店長の元へと、戻った。
「店長さん。これも、お願いします」
「…おお、こいつは、また随分と個性的なのを選んだねえ」
店長さんは、その『Abs3』というラバーを見て、少しだけ驚いたような、しかしどこか、楽しそうな顔で、笑った。
「分かったよ。じゃあこいつは、さっき言ってた、新しいブレードに貼ってやるからな」
結局その日、私は、予備のいつものラケットと、そして『Abs』を貼った、新しいラケット、その二本を手に入れた。
家に帰り、一人。
私は買ってきた惣菜を、無機質に胃に収め、そして自室へと、向かう。
向かう先は当然、あの、私だけの「実験室」。
私はその、新しいラケットを、手に取った。
ストレートのグリップ。そしてフォアにはいつもの、赤い、裏ソフト。
バックには、光を吸収するような黒い『Abs』アンチスピン。
それはラケットという名の、私の新しい、可能性の翼。
私は、卓球マシンのスイッチを入れた。
そして、その新しい武器の感触を、確かめるように、淡々とボールを打ち始める。
私の瞳には、もう何の感情もない。
その、はずだった。
なのに。
私の胸の奥には、まだ確かに、残っている。
仲間たちからもらった、温かい、感情が。
私を守ろうとしてくれた、部長の不器用な、怒り。
私の心を理解しようとしてくれた、葵の、優しい言葉。
そして、私の帰りを待っていてくれた、祖父母の愛情。
(…これらは、ノイズではない)
私の思考ルーチンが、新しい結論を導き出す。
(これらは、私のシステムを乱すバグではない。むしろ…)
マシンが放つ、強烈なドライブを、私はアンチスピンで、ひたすらに捌いていく。
一球一球、打ち返すたびに、私の胸の中の、その温かい光が、より強く、輝きを増していく。
(…そうだ。この温かい感情こそが、私を前へと進ませる、強力なエネルギーになるんだ)
「魔女」だの「残酷だ」のという、外部からのノイズ。
切り裂かれた、ラケット。
それらのマイナスのデータは、確かに私の心を、傷つけた。
だが、今の私には、それを上回る、プラスのエネルギーがある。
仲間たちがくれた、この温もり。
それこそが、私の氷の壁を、内側から支える、新しい力。
その推進力を得て、私の集中力は、どこまでも研ぎ澄まされていく。
私は、ひたすらにボールを捌く。
マシンの設定を、さらに複雑なものへと、切り替えていく。
回転、スピード、コース。
その全てをランダムに設定し、そして、その全てのボールに、完璧に対応していく。
私の動きは冷徹で、そして機械のように正確だ。
だがその心は、決して冷たいものでは、ない。
胸の中で燃える、この温かい光が、私の全ての行動の、源泉となっている。
そうだ。
これこそが、私の新しい戦い方。
感情を、捨てるのではない。
その温かい光を、抱きしめたまま、誰よりも強く、そして、冷徹に勝利を掴む。
私は、仲間という光を得て、そしてさらに高く、飛ぶのだ。
静かな部屋に、ボールの乾いた音だけが、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。