切り裂かれた翼(9)
俺は、ただ黙って、彼女の隣に、座り続けた。
長い長い夜が明けるまで、まだ、時間は、かかりそうだ。
でも俺は、もう彼女から、目を逸らさない。そう心に誓った。
やがて、診察室の重い沈黙は、富永先生の優しい声で、破られた。
いくつかの、事務的な連絡の後俺たちは、診察室を後にした。
帰り道。
夕暮れの、茜色の光が、俺としおりの影を、長く長く、アスファルトに、伸ばしている。
俺は、まだかける言葉を、見つけられずにいた。
富永先生の言葉が、頭の中で、ぐるぐると回っている。
『一番大切なのは、しおりさんの心が、もう二度と壊されないように、なること』
(…俺が、その盾になる)
俺が、改めてそう決意した、その時だった。
「部長」
隣を歩いていたしおりが、ふと立ち止まり、俺を見上げていた。
その瞳には、いつもの氷のような光が、戻っている。
だが、その奥に、ほんのわずかに、違う色の光が、灯っているような、気がした。
「卓球用品店に寄っても、いいですか?」
「…ああ。もちろん構わねえけど」
俺たちは、進路を変え、店長のいる、あの卓球用品店へと向かった。
店長の遠藤さんは、俺たちを見ると、驚いたような、しかし、温かい笑顔で、迎えてくれた。
しおりは、カウンターの前に、立つと単刀直入に、用件を切り出した。
「店長さん。予備のラケットを、もう一本、お願いします」
そして、彼女は続けた。その声は、どこまでも平坦だった。
「いつ、また壊されるか、分かりませんので。」
その言葉に、俺の胸が、ずきりと痛んだ。
彼女は、もうあの出来事を、乗り越え、そして次なる、脅威に、対する、準備を始めているのだ。
「…メインと、同じ仕様、フォアにディグニクス80、バックにスーパーアンチラバーで、お願いします」
「おう分かった。すぐに作ってやるよ」
店長さんが、快く頷く。
その、作業を待つ間。
しおりは、壁に並べられたラバーを、じっと見つめていた。
そして、ぽつりと呟いた。その声には、珍しく、明確な苛立ちが、滲んでいた。
「私のラバーがずるい、という、戯言が、囁かれているそうですね。」
やはりしおりの耳にも入ってたのか。あんな噂を囁かれて、苛つかない人間などいない、苛立つのも無理もない。
「ああ…、お前に嫉妬してる奴らの戯言だな、ブロック大会優勝ってかなり凄いトロフィーなんだぜ?」
俺は、なるべくプラスになるように会話を返す。
「…ふん、…馬鹿らしい。このスーパーアンチラバーなんて、3000円程度の安物です。そんなに、この性能が羨ましいなら、自分たちも使えばいいのに。」
その初めて聞く、彼女の「ぼやき」。
そのあまりの人間臭さに、俺は、少しだけ面食らった。
だが、彼女の言葉は、そこで終わらなかった。
彼女は、すっと顔を上げ、そして、その氷の瞳で、俺を、見つめて言ったのだ。
その声は、どこまでも冷たく、そして論理的だった。
「だったらずるいと言われる、この受注生産の『Abs』を使ってもいいですよね? 私は、ルールブックの中で最大限合理的な選択をしているだけです。文句を、言われる、筋合いはない」
俺は、その言葉に、息をのんだ。
(…こいつ…怒ってやがる…)
だがその怒りは、俺が知っている、感情的なものでは、ない。
冷たい冷たい、怒り。
自らを、否定する、者たちを、その、ロジックと、実力で、完全に、ねじ伏せる、という、強い、強い、意志。
俺は、その彼女の迫力に、完全に引いていた。
そして、かろうじて、声を絞り出す。
「お、おう…。いいんじゃ、ねえか…?」
しおりは、俺のその返事に、満足したようにほんのわずかに、頷くと、ラバーを持って、店長の元へと渡しに行った。
俺は、改めて思った。
こいつを守ると誓ったが、それは、生半可な覚悟で、できることじゃない。
俺は、このあまりにも複雑で、そして、危うい天才の隣に立ち続けることが、できるのだろうか。