切り裂かれた翼(7)
「…しおりさん。今の、部長さんの話を聞いて、どう思ったかな?」
富永先生の、そのあまりにも静かな、問い。
それは私の思考ルーチンに、直接、そして深く突き刺さった。
隣で、部長が固唾をのんで私の答えを、待っている。
その空気の重さが、私の肩に、のしかかる。
(どう、思ったか…?)
私の思考ルーチンが、その問いに対する最適解を、検索する。
(…部長の行動。私を守ろうとする、その意志。それは、彼なりの、善意でありチームの主将としての、合理的な行動だ。だがその行動は、結果として私のラケットが破壊されるという事態を防ぐことはできなかった。彼の、怒りと後悔は、非合理的な感情の発露であり、問題解決には、寄与しない)
そうだ。
それが論理的な答えだ。
私はそう言えばいい。
いつも通り、感情を排した分析結果を、報告すれば、いい。
なのに。
なぜだ。
言葉が、出てこない。
喉の奥で何かがつかえて、声にならない。
その代わりに、私の胸の奥で、別の答えが、聞こえる。
(…嬉しかった)
(部長が私のために、怒ってくれたこと)
(私のために、自分を責めて、くれていること)
(その不器用な、優しさが、痛いほど、伝わってきて…)
(…そして、悲しかった)
(なぜ、私の大切なものは、いつも、こうやって壊されてしまうのだろう)
(なぜ、私はまた一人に、なろうとしているのだろう)
(怖い。寂しい。誰か、助けて…)
その二つの、相反する思考が、私の中で、激しく、ぶつかり合う。
論理と、感情。
氷と、炎。
どちらが、本当なのか、もう分からない。
しばらくの、沈黙の後。
私が、絞り出したのは、その、どちらでもない、あまりにもちぐはぐな、言葉だった。
「…………分かり、ません」
そのか細い声に、部長がはっと顔を、上げた。
「…彼の行動は、非合理的です。ですが、私の思考ルーチンは、その非合理的な行動に対しエラーではなく…別の、解析不能な反応を示しています。…このバグの原因が、私には、分かりません」
私のその、必死の告白。
それを聞いた、富永先生は、何も言わなかった。
ただ、その慈愛に満ちた瞳で、私を見つめそして深く、深く頷いた。
まるで「それで、いいんだよ」と、そう言ってくれているかのように。
そして彼は、静かに、私に語りかけた。
「しおりさん。それはね、バグなんかじゃ、ないんだよ」
「それは、君のその、分厚い氷の壁の下から、君の心が『もう一人で、戦わなくてもいいんだよ』って、君に教えてくれている、大切なサインなんだ」
「君は今まで、ずっと一人で戦ってきた。誰にも頼らず、誰にも弱さを見せず、ただ勝利という鎧だけを頼りに。でもね、今の君の周りには、君のことを心から心配し、そして君のために本気で怒ってくれる仲間が、いる。その事実に君の心が、気づき始めたんだよ」
富永先生は、そう、言って、優しく、微笑んだ。
「今は、まだ分からなくて、いい。混乱して、当然だ。でもね、一つだけ、覚えておいてほしい」
「君が感じている、その温かい痛みも、苦しい優しさも、全部君が、一人じゃないっていう、何よりの証なんだからね」
その言葉が、私の心の一番深い、場所にすとんと、落ちてきた。
私の瞳から、また熱い何かが、零れ落ちる。
それはもう、止めることが、できなかった。
隣で、部長が、何も言わずに、ただ、黙って、私の、隣に、座ってくれていた。
その、大きな、背中が、不思議と、とても、頼もしく、見えた。
私の、長くて暗い夜は、まだ、終わらないのかもしれない。
でも、その闇の中に、今確かに、いくつかの温かい光が、灯り始めているのを、私は感じていた。