切り裂かれた翼(5)
しおりの、祖父母の家を出た後も、俺の心の中では、嵐が、吹き荒れていた。
俺が今まで、見てきたしおりの姿。
その一つ一つの裏に、これほどの絶望と痛みがあったとは。
俺は、主将として彼女の何を見て、何を分かったつもりで、いたのだろうか。
悔しさと、そして、自分自身への怒りで、唇を強く噛み締めた。
翌日。
部活が、始まる前。
俺は体育館の入り口で、しおりを待っていた。
やがて現れた、彼女の姿は、いつもと何も変わらない。
感情の読めない、氷の仮面。
だが今の俺には、その仮面の下の、本当の彼女の顔が、見えるような気がした。
「おはようございます、部長」
「おう、しおり。おはよう」
俺はできるだけ、いつも通りに振る舞う。
彼女は俺が昨日、祖父母に会ったことなど、知らないはずだ。
「しおり。今日部活、終わった後、予定はあるか?」
俺のその問いに、彼女は少しだけ不思議そうな、顔をした。
「…いえ。特にありませんが。何か、分析が必要な、データでも?」
「違う」
俺は、首を横に振った。
「今日お前病院に、経過観察に行くんじゃなかったか?富永先生のところに」
その名前を出した瞬間、彼女の瞳が、ほんのわずかに、揺らいだのを、俺は見逃さなかった。
「…なぜ、それを」
「昨日、お前のじいちゃんに、聞いたんだ。俺も、一緒に、行っていいか?」
俺の、そのあまりにも、唐突な提案に、彼女は一瞬思考を、停止させたようだった。
彼女は、俺の真意を探るように、じっと俺の目を見つめている。
やがて、彼女は静かに、そして平坦な声で、言った。
「…あなたが、それを望むなら。私は、構いません」
その言葉には、肯定も否定も、ない。
ただ、事実を受け入れる、という、彼女らしい答えだった。
そして、放課後。
俺たちは二人で、富永先生のいる、心療内科へと、向かった。
診察室に通され、俺は少し離れた椅子に、腰を下ろす。
しおりと、富永先生の対話が、始まった。
先生はまず、彼女の体調を気遣い、そして学校での様子を、優しく尋ねていた。
しおりは、いつも通り淡々と、そして分析的に、それに答えていく。
だが、俺には分かった。
彼女のその、氷の仮面が、この富永先生の前でだけは、ほんの少しだけ、薄くなっている、ということが。
しばらく、話した後。
富永先生が、静かに、本題を切り出した。
「…それで、しおりさん。今日は、僕に何か、話したいことが、あるんじゃなかったかな?」
その問いに、しおりは一度、ぎゅっと唇を結んだ。
そして、意を決したように口を開いた。
その声は、震えていなかった。
ただ、どこまでも静かで、そして冷たい、事実の報告。
「はい先生。先日、私のラケットが、何者かによって、破壊されました」
「…私が、葵と一緒に店長さんに、作っていただいた、予備のラケットです。部室のロッカーに、置いていたのですが、練習の終わりに、確認したところ、カッターのような、もので、切り裂かれていました」
彼女は、淡々と事実だけを、語る。
まるで、他人事のように。
だが俺には、その言葉の裏にある、彼女の、深い深い、絶望とそして、怒りが痛いほど伝わってきた。