異端者の執念
部室を出た後も、私の頭の中は、県大会の対戦相手の情報と、今日三島さんが集めてくれた映像の断片で満たされていた。
青木 桜の安定したフォアハンドドライブ、鬼塚 達也の破壊的な3球目攻撃、そして月影女学院の「謎のカットマン」の変幻自在な守備。
それら全てが、私の分析対象であり、攻略すべき課題だ。
自宅に戻り、簡単な夕食を済ませると、私はいつものように地下の練習部屋へと向かった。
そこには、高性能な卓球マシンと、使い古された卓球台だけが静かに置かれている。私の「聖域」であり、私の「実験室」でもある場所。
部長との「実験練習」で、私は「マルチプル・ストップ戦略」の確かな手応えと、同時に多くの課題を見つけていた。
同じように見えるモーションから、裏ソフトとスーパーアンチを使い分け、下回転、横回転、ナックルといった異なる球質のストップを繰り出す。
相手の予測を裏切り、思考を停止させ、そして次の攻撃への布石とする。
この戦術は、私の「異端」の卓球を、さらに新たな次元へと引き上げる可能性を秘めている。
…モーションの共通化は、ほぼ問題ないレベルに達した。
だが、それぞれのストップの「質」と「精度」、そして何よりも「持ち替え」の瞬間の、ラケット面とボールのインパクトの最適化。これが、まだ不安定だ。
私は、マシンを起動させ、様々な種類のショートサーブをランダムに、しかし正確なコースに送球するようにプログラムした。
そして、一本一本、全ての意識を指先とラケット面に集中させ、ストップの練習を開始する。
裏ソフトでの下回転ストップ。
インパクトの瞬間、ボールの下を薄く、鋭く擦り上げる。回転量を最大化し、ネットすれすれに、かつ相手コートの最もいやらしい場所にコントロールする。
シュルル…というボールの回転音が、静かな部屋に響く。
最初の数本は、回転が甘く、ボールが浮いてしまう。あるいは、ネットにかかる。
…駄目だ。手首の使い方が硬い。もっと脱力し、インパクトの瞬間にだけ力を集中させる。
私は、脳内で自分の動きをリプレイし、修正点を洗い出す。そして、再び同じ動作を繰り返す。
徐々に、ボールの回転量が増し、軌道が安定していく。
スーパーアンチでのデッドストップ。
強烈な下回転サーブに対して、ラケット面をわずかに被せ、ボールの勢いを完全に殺し、ネット際に「死んだ」ボールを落とす。
カツン…という、ラバーがボールのエネルギーを吸収するような、鈍い音。
これは、成功すれば相手にとって悪夢のようなボールとなるが、少しでもインパクトが強すぎれば浮き、弱すぎればネットを越えない。
…ボールの回転軸と、ラケット面の入射角。そして、ボールに触れる時間の長さ。
かなりの精度で一致しなければ、この技は完成しない。
壁に設置された鏡に映る自分のフォームを凝視し、ミリ単位での調整を繰り返す。
そして、最も難易度が高いのが、同じモーションからの「横回転ストップ」と「ナックルストップ」の打ち分けだ。
モーションの開始からインパクト直前までは、全く同じ動き。
しかし、最後の最後、ボールがラケットに触れるか触れないかの瞬間に、裏ソフトでボールの側面を捉えて横回転を加えるか。
スーパーアンチで回転を殺してナックルで押し出すか、あるいは滑らせるようにして予測不能な揺れを生み出すか。
それは、もはや技術というよりも、芸術に近い領域の繊細さを要求される。
何度も、何度も、ボールは無情にもネットにかかり、あるいは台の外へと消えていく。
私の額からは汗が流れ落ち、呼吸も速くなる。しかし、私の集中力は途切れない。
むしろ、失敗のデータが蓄積されるたびに、私の脳はより活性化し、成功への最適ルートを猛烈な勢いで計算し始める。
…部長との練習では、「コツ」を掴んだと思った。
だが、それはまだ、不安定な感覚的なものに過ぎない。
これを、揺るぎない「技術」へと昇華させなければならない。
そのためには、あらゆる回転、あらゆるコース、あらゆるスピードのボールに対して、最適な解を瞬時に導き出し、実行できるだけの、膨大なデータベースと、それを寸分違わず再現できる肉体が必要だ。
時間の感覚が、薄れていく。
部屋の窓の外は、いつしか深い闇に包まれ、遠くで虫の音が聞こえるだけだ。
私の世界には、ボールの音と、自分の呼吸音、そしてラケットが空を切る音だけが存在する。
ふと、ラケットを握る手が、自分の意思とは関係なく、微かに震えていることに気づいた。
極度の集中と、繰り返される精密な動作。それは、私の神経を確実にすり減らしていく。
そして、その疲労の隙間から、ほんのわずかに、あの「悪夢」の気配が顔を出す。
それは、具体的な映像や音ではない。
ただ、底知れない不安感、孤独感、そして世界から切り離されたような、冷たい感覚。
…いけない。集中が、途切れる。
私は、一度ラケットを置き、壁にもたれかかって床に座り込んだ。
荒い息を繰り返し、心臓の鼓動を鎮めようとする。
この「マルチプル・ストップ戦略」は、確かに強力な武器になる。だが、その代償として、私の精神は、より深く、より静かな、しかし危険な領域へと沈み込んでいくのかもしれない。
…勝利のためなら、どんな代償も厭わない。そう決めたはずだ。
私は、自分に言い聞かせるように呟き、再び立ち上がった。
まだだ。まだ、完成とは言えない。
県大会まで、あと数日。
私の「異端」は、この孤独な夜の中で、さらにその鋭さを増していく。
そして、その輝きが強ければ強いほど、その影もまた、濃くなっていくことを、私はまだ、本当の意味では理解していなかった。




