切り裂かれた翼
あの日、葵と手を繋ぎ、ラケットを作ってから数日が過ぎた。
私の思考ルーチンは、相変わらずあの「感情」という、解析不能なパラメータの処理に、追われていた。
だが、その混乱は決して、不快なものではなかった。
むしろ、私の「静寂な世界」に、初めて差し込んだ、温かい光のようでもあった。
だが、その光が強ければ強いほど、世界の影もまた、濃くなる、ということを、私はまだ知らなかった。
ある日の、放課後。
私が、教室から体育館へと向かう、その廊下で。
私は、それを、聞いた。
「あいつか、魔女と呼ばれるような奴は…」
「目を合わせるなよ…」
「なんでも、一睨みで、相手の心を砕くとか…」
私の胸の奥が、軋りと痛んだ。
だが、私が何か行動を起こす前に、私のすぐ隣から、大きな影が表れ、そして大きな声が、響き渡った。
「――お前ら、なんか、用か?」
部長だった。
彼は、その大きな体で、私を庇うように立ち塞がり、そして噂話をしていた生徒たちを、睨みつけている。
生徒たちは、びくりと肩を震わせ、そして、逃げるように、その場を、立ち去っていった。
その日から、部長は、私に付きまとうようになった。
廊下でも、休み時間でも、常に私の数メートル後ろを、歩いている。
彼のその存在は、あまりにも大きく、そして目立つ。
流石に部長が居るところで、噂は、囁かれない。
(…合理的では、ない。だが、彼のこの行動は、彼なりの優しさという、パラメータに、基づくものなのだろう)
私はその不器用な守護者を、ただ静かに、受け入れていた。
その日の、練習の終わり。
部長との、ラリー練習を終えた後。
私は、ふと思いついた。
この不器用で、そして誰よりも、私のことを信じてくれるこの、男に、私の新しい可能性を、見せてあげよう、と。
「部長」
「おう、どうした?」
「あなたに、私の裏芸を、見せてあげます。あなたが、まだ、知らない、私の力を」
私のその、やや傲慢で、そして、挑戦的な言葉に、部長はきょとんとした、顔をしたが、すぐにニヤリと、笑った。
「はっ!面白え!見せてみろよ、お前の力ってやつを!」
私たちは、二人で体育館を後にし、部室へと、向かった。
そこには先日、店長さんに作ってもらった、あのカオスのラケットが、置いてあるはずだ。
予備として一応、持ってきていた、私の、新しい翼。
部室の、ドアを開ける。
私は、自分のロッカーへと向かい、そして、その新しいラケットケースを、手に取った。
だが、その感触に、違和感を覚える。
嫌な予感がした。
私は、震える手で、そのケースのジッパーを、開けた。
そして、私は見てしまった。
私の、新しいはずだった、ラケット。
その、美しいブレードには、無数の、傷。
そして、黒い『Chaos』と、赤い裏ソフト、その両方が、まるで、獣に引き裂かれたかのように、カッターのような、鋭利な何かでずたずたに、切り裂かれていた。
「…………あ」
私の口から、声にならない声が、漏れる。
頭の中が、真っ白になる。
思考が、停止する。
(…なぜ…?)
(誰が…?)
(どうして…?)
私の脳裏に、あの遠い日の記憶が、フラッシュバックする。
父の怒声。
そして、彼の手によって、いとも簡単に、へし折られた、あのラケット。
乾いた、破壊音。
「――っ!」
私は、その場に蹲り、頭を抱えた。
やめて。
やめて。
やめて。
思い出したくない。
感じたくない。
私の、心の奥底で、何かが、音を立てて崩れていく。
せっかく見つけ出した、温かい光が、今再び、深い深い、絶望の闇に、飲み込まれていこうとしていた。
私の本当の夜は、やはりまだ、明けてなどいなかったのだ。