未来への約束(6)
私の、静寂な世界は、もうない。
そこには、親友の笑い声と、そして、少しだけ、恥ずかしくて、でも、どこまでも温かい光が、満ちていた。
その、新しい世界の感触を、私はただ戸惑いながらも、受け止めていた。
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私は、そのあまりにも人間的な反応を見せる、しおりの、横顔を見つめていた。
そして壁一面に、並べられた、あの黒い、ラバーの、壁を。
その中に、彼女が先ほど選んだ『Chaos』という、ラバーが、あった。
(…そういえば)
私は、ずっと不思議に、思っていたことを、彼女に問いかけてみた。
「ねえ、しおり」
「ん?」
しおりが、顔を上げる。その頬は、まだほんのりと赤い。
「しおりはさっき『Chaos』を、久しぶりに使うって言ってたけど…。今まで、使ってたその『Super Anti』って、ラバーは、アンチの中でも、どちらかというと、入門用なんでしょ?」
私は、ビデオで彼女の卓球を研究する中で、ラバーの、知識も少しだけ、身につけていた。
「しおりならもっと変化の大きい、それこそ、『Chaos』みたいなラバーを、ずっと使っててもおかしくないのに。どうして、今まで、その『Super Anti』を、使ってたの?」
私のその、素朴な疑問。
それに、彼女は、一瞬だけ遠い目をした。
そして、静かに、語り始めた。
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葵の、その、問い。
それは、私の卓球のスタイルの根幹に触れる、問いだった。
私は、壁に並べられた黒い、ラバーたちを、見つめる。
「…確かに、性能面で言えば、『Chaos』の方が、強いかもしれません」
私は、静かに、答える。
「あのラバーは、その名の通り、カオスな、予測不能な変化を、生み出す粒高のラバーです。相手を幻惑し、破壊するには、最適な武器です」
「じゃあ、どうして…?」
葵が、不思議そうに、首を、傾げる。
私は、自分の胸に、手を、当てた。
そして、私の心の奥底にある、本当の理由を、言葉にする。
「…それは、私らしくないのです」
「え…?」
「私が、卓球に求めていたのは、ただ、相手を破壊するための力では、ありませんでした」
私は、続ける。
「私が本当に、欲しかったのは…。外部からの、過剰な情報や、感情という名の『回転』を、完全に受け止め、そして無力化し、静かに相手に返す、という、絶対的な心の強さだったのです」
そうだ。
あの、小学生の、あの日。
父の暴力と、母の裏切りの中で、私が求めていたのは、反撃の力ではなかった。
ただ、その理不尽なエネルギーの奔流の中で、自分を、失わずに立っていられる、心の盾。
「『Super Anti』というラバーの性能。それは、決して、派手ではありません。ですが、その、『相手の力を、受け止め、無に還す』という、コンセプトこそが、私が、求めていた、心の、強さ、そのものだったのです」
私の、その告白。
それを聞いた葵は、何も、言わなかった。
ただその大きな、瞳に、涙をいっぱいに溜めて、私の、ことを、じっと見つめていた。
そうだ。
これこそが、私の、本当の原点。
勝利のためではなく、自分を守るために、選んだ、この、ラバー。
そして今、私は、その盾を手に、新しい仲間たちと、共に、立っている。
もう、私は、一人じゃない。
だから、もう守るだけじゃ、なく、攻めることも、できる。
この、じゃじゃ馬のような、『Chaos』を、使いこなす、ことも。
そして、何よりも、卓球を、心から、「楽しむ」ことも。
私は、新しい、ラケットを、店長さんから、受け取った。
そのグリップの、感触を確かめるように、強く、握りしめる。
作ってはみたが、メインのラケットをスーパーアンチラバーから変える予定はない。
回転を無効化し、そしてある時は回転をなぞり受け入れる、そんなラバーがスーパーアンチラバー。
私の戦いは、これからも、続くのだ。