未来への約束(5)
(あなたが一人で、ずっと戦ってきた、孤独で、そして、美しい、世界)
葵の、その声にならない声が、私の心に響く。
そうだ。
ここは、私の聖域。
そして、この黒いラバーの壁は、私の、孤独の、象徴であり、そして最強の武器でも、あった。
私はその壁の前に立ち、一つ一つの、ラバーを、眺めていた。
その時、私の思考ルーチンに、これまで、感じたことのない種類の、衝動が、生まれた。
それは「実験したい」という、いつもの、知的な欲求とは、少し違う。
もっと純粋で、そして子供のような「試してみたい」という、衝動。
私は店長さんの、方へと、向き直った。
「店長さん。せっかくだから、一本、新しく作っていただけますか。」
「おお、いいとも!もちろんだ!」
店長さんは、心底嬉しそうに、笑った。
「どんな、組み合わせに、するんだ?」
私は、壁の中から、一枚のラバーを、指差した。
Andro社の、『Chaos』。
その名の通り、予測不能な変化を生み出す、じゃじゃ馬のような、ラバー。
「バックは、これにします。久しぶりに、この『カオス』を、使ってみたくなりました。」
以前、使っていたことがある。手足の様に扱える様になるまで、一年もかかった、だがそれでも、あまりの扱いにくさ、技をかけにくいという欠陥が、私のプレイスタイルと合わなかったのだ。
でも、今の私なら。
この、「楽しい」という、感情を知った、私なら。
この、じゃじゃ馬を、乗りこなせるかもしれない。
「フォアはいつものもので。そして、ブレードは…ストレートで、何か良さそうなものを、お願いします。 コントロールと攻撃のバランスが、良いものが希望です」
「ようし、任せとけ!」
店長さんが、嬉々として、作業に、取り掛かる。
その、時だった。
店の中を、興味深そうに見て回っていた葵が、突然、大きな、声を上げた。
「し、しおり、これ…!」
私が、彼女の視線の先を追うと、そこには、一枚のポスターが、誇らしげに飾られていた。
黒い背景に、浮かび上がる、私のシルエット。
そして、そこに書かれた、言葉。
『――予測不能の魔女、再び。』
そしてそのポスターの横には、私の使っている、ラケットやラバー、そして、これまでの大会の結果が、書かれた、新聞の切り抜きなどが、綺麗にファイリングされている。
それは、まさしく「静寂しおりコーナー」とでも、言うべき、空間だった。
「すごい!しおり、すごいよ!『予測不能の魔女』!かっこいいーっ!」
葵はまるで、自分のことのように、興奮し目をキラキラと、輝かせている。
そして、あろうことかカバンからスマートフォンを、取り出し、そのポスターの写真を、撮り始めた。
私は、その光景を見て、自分の顔に、カッと熱が集まっていくのを、感じた。
私は、顔を真っ赤にしながら、うつむいた。
そして、蚊の鳴くような声で、葵に言うのが、精一杯だった。
「……やめてください、葵。恥ずかしい、です…」
私の、そのあまりにも人間的な、反応に、葵はきょとんとした顔をしたが、すぐに、楽しそうに笑った。
そして、カウンターの奥で、作業をしていた店長さんもまた、その大きな体で、肩を震わせて、笑っていた。
私の静寂な世界は、もうない。
そこには、親友の笑い声と、そして、少しだけ恥ずかしくて、でも、どこまでも温かい光が、満ちていた。
その、新しい世界の感触を、私はただ戸惑いながらも、受け止めていた。