未来への約束(4)
手を、重ねたまま、お互いの存在を確かめ合っているだけで、私の心は、これまでにないほど、穏やかに、そして、温かく満たされていった。
どれくらい、そうしていただろうか。
ようやく、私の、涙が、おさまった頃。
私は、ゆっくりと、顔を、上げた。
隣でしおりも、ほんの少しだけ、その瞳を赤く腫らしている。その、姿がなんだか、昔の泣き虫だった、彼女の、面影と重なって、私の胸を、きゅうっと、甘く、締め付けた。
私が、その涙の跡を、ハンカチで、拭ってあげようと、した、その時だった。
しおりが、ふっと、私の、手から、離れ、そして、立ち上がった。
そして、彼女は、まるで、何も、なかったかのように、私に、言ったのだ。
「葵」
「アンチラバーを、見に行きましょう」
その声は、いつもの、あの平坦な、響きに、戻っていた。
でも、その瞳の奥には、確かに、新しい、そして、強い光が宿っている。
私は、彼女らしい切り替えの速さに、思わず笑ってしまった。
「…うん、行こう!」
私たちは、二人で、店長さんが指し示した店の、一番、奥の一角へと、向かった。
そこには、本当に信じられない光景が、広がっていた。
壁一面に、ずらりと並べられた、黒い、ラバー。
その、全てがアンチラバーなのだという。
「うわあ…!すごい…!全部、アンチ…?」
私が、感嘆の声を上げると、しおりは静かに頷いた。
そして、彼女は、まるで自分の研究成果を発表する科学者のように、その黒い壁を指差しながら、私に説明を、始めた。
「まず、あれが、Dr. Neubauer (ドクトル・ノイバウアー)社のものです。ドイツの、異質ラバー専門のメーカー。あの『Anti Special (アンチスペシャル)』は、スポンジが柔らかく、ボールの、威力を殺すことに特化している。私が、使うデッドストップに近い効果が、期待できますね。隣の『Abs (アブス)』は、さらにその効果を、高めたもの。そして、あの『Gorilla Anti (ゴリラアンチ)』は、逆に、少し弾む性質を持っていて、攻撃的な、プレーにも、対応できる、という、データがあります」
彼女のその、あまりにも、専門的な解説に、私は、ただ、呆然と聞き入るしかなかった。
「そして、こちらが日本のメーカー。TSP (ティーエスピー)社の『Super Anti (スーパーアンチ)』。これは、私が今使っている、モデルですね。安定性が高いのが、特徴です。そして、Nittaku (ニッタク)社の、その名も『Anti (アンチ)』。最も、オーソドックスで、癖のない、入門用のアンチラバーと言えるでしょう」
彼女は、次々と、ラバーを指差していく。
「Victas (ヴィクタス)社の、『VS > 401 (ブイエス・ヨンマルイチ)』。これは、アンチではなく、微粘着性の高弾性ラバーですが、アンチのように、相手の回転を利用するプレーが得意な選手が、好んで使います。Andro (アンドロ)社の、『Chaos (カオス)』は、その名の通り、予測不能な変化を生み出す。…ですが、その分、扱いも非常に、難しい。私も試しましたが、自分の手足の様にするには、一年ほどかかりました」
彼女のその、淀みない説明。
その瞳は、もはや氷のように、冷たいものではない。
ただ純粋に、卓球というこの奥深い世界を、探求する、子供のような、キラキラとした輝きに満ちていた。
私は、その横顔を見ているだけで、幸せだった。
「他にも、中国の、Friendship (フレンドシップ)社や、アメリカの、Gambler (ギャンブラー)社…。Giant Dragon (ジャイアントドラゴン)、Xiom (エクシオン)、Yasaka (ヤサカ)、Donic (ドニック)…。世界には、これだけの、アンチラバーが、存在するのです。その、一つ一つに、異なる、特性と、可能性がある」
彼女は、最後に、私に向き直り、そして言った。
その声は、いつになく、弾んでいた。
「葵。あなたには、分からないでしょう。この黒い、ラバーの壁が、私にとって、どれほどの宝の山か、ということが」
私は、その言葉に、静かに頷いた。
そして、心の中で、答える。
(ううん。分かるよ、しおり)
(これが、あなたの、世界なんだね)
(あなたが、一人で、ずっと、戦ってきた、孤独で、そして美しい、世界)
私は、決意した。
このあまりにも、複雑で、そして魅力的なあなたの世界を、これからは、私も一緒に歩いていきたい、と。
あなたの、一番、近くで。
あなたの、最高の、理解者として。
そして、いつか、あなたと、対等に、語り合える、ただ一人の、親友として。