未来への約束(3)
私の、新しい「救済」は、まだ始まったばかりだ。
それは、彼女の仮面を壊すことじゃない。
彼女の、その氷の下の、本当の優しさと、不器用さと、そして弱さ、その全てを、丸ごと愛し、そして、支え続けること。
大丈夫だよ、しおり。
私は、もう、どこにも、行かないから。
あなたの、一番、近くで。
カラン、と、ドアベルが、軽やかな、音を、立てる。
私たちが、店に、入ると、奥から、人の、良さそうな、笑顔が、現れた。
「おお、静寂の。いらっしゃい。…おや、今日はお友達と、一緒かい?」
店長さんが、その優しい眼差しを、私たちに、向ける。
しおりは、私の手を、自然と、握りしめていた。
「…はい。こちらは日向 葵。私の、大切な親友です」
しおりの、その言葉に、私の心臓が、きゅうっと、甘く、締め付けられる。
店長さんは、私の顔を、じっと見つめ、そして何かを、確信したように、深く、頷いた。
「日向さん、だね。…君のことは、静寂の、おじいさんたちから、よく聞いているよ。ずっと君のことを、探していたんだ。 いつか、君をここに、連れてきてくれる日が、来るって信じてね。」
「え…?」
私が、戸惑いの声を上げると、店長さんはにこやかに、笑った。
「まあその話は後でゆっくりと。…それより、静寂の。君のために、面白いものを、用意したんだ。見てくれ」
彼が、指差した先。
それは、店の一番、奥の一角。
そこには、これまで見たこともないようなおびただしい数の、黒いラバーが、壁一面に、展示されていた。
「これは…?」
しおりが、不思議そうに、呟く。
「君のために特設した、アンチラバーコーナーさ。 国内で手に入る、全てのアンチラバーを集めてみた。メーカーも、種類も様々だ。中には、もう廃盤になった、貴重なものもある。採算は度外視だが…、君がもっと強くなるためのヒントが、あるかもしれない、と思ってね」
そのあまりにも大きな、そして、温かい愛情。
しおりは言葉を失い、ただ、その黒い壁を、呆然と見つめていた。
「…見てきても?」
しおりは、気になりすぎてるからか、聞きながらも既にアンチラバーの方へ引き寄せられていく。
私もまた彼の、その底知れない、優しさに、胸を、打たれていた。
ふと店長さんの顔を覗く。
店長さんの、その優しい笑顔を見て、私の記憶の、奥底に、引っかかっていた、何かが繋がった。
あの日。
しおりが、私の前から、いなくなってしまった、あの日。
アスファルトの上で、血を流して、倒れていた、彼女。
その彼女の、そばで必死に、声を、かけ続けていた、一人の、男性。
その、顔と、今、目の前で、微笑んでいる、店長さんの、顔が、完全に、一致したのだ。
「………あ…」
私の、口から、声にならない、声が、漏れる。
「あなた、は…!あの日、しおりを、車で…!」
私の、その、言葉に、店長さんの、表情が、一瞬だけ、悲しそうに、歪んだ。
「…ああ。やはり、気づいてしまったか。そうだ。あの日、はねてしまったのは、私だ」
しおりが、私の大声に気付きはしたが、どうやらアンチラバーに夢中のようだ。
私は、混乱していた。
この人は、敵なの?味方なの?
私の、そんな思考を、読むかのように、店長さんは、静かに、語り始めた。
彼が私に、しおりの、辿ってきた軌跡を、語ってくれたのだ。
事故の後、なにか罪滅ぼしをしたいと、何か自分に出来ないことがないか聞いたら、しおりの祖父母から、彼女の、壮絶な過去を、聞いたこと。
そして、転校先でも心を閉ざしてしまった、彼女が、たった一人で、卓球マシンを、相手に、血の滲むような、練習を、続けていた、ということを。
「あの子はね、君を守りたかったんだ。自分と同じ地獄に、君を引きずり込みたくなくて、たった一人で、君を突き放す、という選択をした。それほどの、想いで、君のことを、大切に、思っていたんだよ」
店長のその言葉、一つ一つが、私の心に、深く深く、突き刺さっていく。
私の瞳から、大粒の涙が、止めどなく、溢れ出してくる。
それは、試合の後の涙とは、また、違う。
しおりの、本当の痛みと、優しさを、初めて知った、私の、心の叫びだった。
目を閉じ想像する、自分の命を断つほどの辛さ、心を開ける人がいないことの辛さ、私には耐えられない、彼女が氷の仮面を被るのは、自分を守るためだったんだ。
私の手に、暖かい手が重ねられる、隣にはいつの間にか、しおりがいた。
私の隣で、何も言わずに、ただ黙って、その手を、握りしめていてくれる。
私たちの間に、もう言葉は、必要なかった。
この場所は、しおりの「異端」が始まった場所。
そして今日、この瞬間、私たちの過去と現在と未来が繋がり、新しい物語が、始まる場所となったのだ。