約束のクレープ
約束の、日曜日。
私は、指定された駅前の、時計台の下で、葵を待っていた。
彼女は、待ち合わせの時間きっかりに、小さなショルダーバッグを、揺らしながら、駆け寄ってきた。
「しおりっ!ごめん、待った?」
「いえ。私も、今来たところです。」
私は、平坦な声で、そう答える。
その瞬間、葵のその太陽のような、笑顔が、ほんのわずかに曇ったのを、私は見逃さなかった。
無理もない。
今の私は準決勝の後に、彼女が見た、「昔の、私」ではない。
あの後私は、自分を守るために、再び、「氷の仮面」を、被り直したようだ。
今の私は、いつものあの「静寂の魔女」に戻っているのだから。
(…少し落胆している。彼女は、あの時の私に会えることを、期待していたのだろう)
葵のその、内なる心の動きを、冷静に分析しながらも、私の胸には、ちくりとした痛みが、走る。
だが葵は、すぐに、いつもの、笑顔を、取り戻した。
(…ううん。大丈夫。これもしおりなんだ。私が、好きになった、しおりなんだから)
彼女の、心の声が、聞こえてくるようだった。
彼女は踏みとどまり、今の私と、付き合うことを、選んでくれたのだ。
「さ、行こっか!クレープ屋さん!」
葵が、私の腕を取ろうとして、一瞬ためらい、そして、そっと私の隣を、歩き出す。
その、小さな変化が、彼女の成長の、証のようだった。
私たちは、クレープ屋さんの、前に、着いた。
甘い匂いと、色とりどりの、メニュー。
私の思考ルーチンが、それぞれの材料のカロリーと、栄養素を、分析し始める。
だが、私は、それを、意識的に、停止させた。
(…富永先生との、約束)
(「リミッター」ではなく、「アクセル」と、「ブレーキ」)
(まずは、自分の心が、どう動くのか、観測しそして、その感情に、名前をつけてみる、という作業…)
私は、メニューを、見つめる。
(観測対象、メニュー。イチゴ、チョコ、バナナ、生クリーム…。これらの、視覚情報に対し、私の身体は、どう反応している?…唾液の分泌量が、僅かに上昇。心拍数も、微増。思考ルーチンは、「高カロリーは、避けるべき」と警告している。だが、その警告とは別に、私の、心の奥底で、何か別のパラメータが、起動している…)
(…これを、仮に、「食べたい」という、感情だと、定義する)
「しおりは、どれにする?」
葵が、私に、尋ねる。
私は、メニューの中から、最も私のその新しい感情を刺激した、一つの、項目を、指差した。
「…私は、これで」
「お、チョコバナナ生クリーム!すごい、甘そうだね!」
「…はい。私の、現在の、脳のエネルギー要求に対し、最も、高い満足度を提供する可能性が、ありますので」
私のそのあまりにも、私らしい、返答に、葵は「ふふっ」と、笑った。
「そっか!じゃあ、それにしよっか!」
私たちは、クレープを手に、近くの公園の、ベンチに、腰掛けた。
私は、おそるおそる、その甘い塊を、一口、食べた。
口の中に、広がる、チョコレートと、バナナと、生クリームの、暴力的なまでの、甘さ。
( 味覚情報。高濃度の糖分と脂肪分。 思考ルーチンは、血糖値の、急激な、上昇を、警告。だが、それとは、別の、領域で、これまで、観測されたことのない、極めて、高い、レベルの、ポジティブな、反応が、発生)
(…この、パラメータの、名前は、なんだ?「美味しい」?「嬉しい」?…あるいは、「幸せ」…?)
私はその、解析不能な、しかし、決して不快ではない、感情の奔流に、戸惑いながらも、もう一口、クレープを頬張った。
隣で、葵が本当に嬉しそうに、笑っている。
その笑顔が、私の心の氷を、また、ほんの少しだけ、溶かしていくのを、感じていた。
「…また、来ましょう、約束です。」
「…!?、うん!」
私の「感情」を感じる、という新しい「実験」は、こうして、甘い甘い味と、そして、親友の、笑顔と、共に、静かに、始まっていったのだ。