リミッター
私の、新しい、「実験」が、静かに、始まってから、数日後。
私は再び、富永先生の診察室のドアを、開けていた。
あの日、彼が灯してくれた、小さな光。
その、正体を確かめるために。
「やあ、しおりさん。よく来てくれたね。」
先生は、いつものように、穏やかな笑みで、私を迎えてくれた。
私たちは、ソファに腰掛ける。
私は、もう以前のような警戒心は、抱いていなかった。
この空間は安全だ、と、私の思考ルーチンが、判断しているからだ。
私は、単刀直入に、本題を切り出した。
「先生。今日は、あなたに、相談があります」
「うん。何かな?」
「リミッターの、外し方を、教えてください」
私の、そのあまりにも唐突で、機械的な問いかけに、富永先生は、少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに、興味深そうに、続けた。
「リミッター、というと?」
「感情、というパラメータについてです」
私は、この数日間の、自己分析の結果を、彼に報告する。
「これまでの、私のシステムにおいて、感情は、思考を阻害するノイズとして、処理されていました。しかし、最新のデータ分析の結果、そのパラメータが、状況に応じて、プラスにもマイナスにも作用する、極めて強力な、エネルギーである、という仮説がたちました。」
「ですが、私にはそのエネルギーを、制御するためのプロトコルがありません。常に、リミッターをかけた、状態、感情の麻痺でしか、自己を保つことができないのです。そのリミッターを、意図的にそして安全に解除し、制御する方法。それを、専門家としての見地から、教えてください。」
私の、その、あまりにも、私らしい、相談。
それを、聞いた富永先生は、ふふっ、と、声を漏らして、笑った。
そして、その優しい眼差しで、私を、見つめて、言った。
「…うん。君の言う通りだ。感情は確かに、とてつもないエネルギーを持っている。そして、君は、そのエネルギーのあまりの強大さに、心を壊してしまわないように、無意識のうちにリミッターをつけて、自分を守ってきた。それは、本当に、すごいことなんだよ」
彼はまず、私のこれまでの、戦いを、肯定してくれた。
そして、彼は、続けた。
「でもね、しおりさん。それは、もうリミッターと、呼ぶ必要は、ないのかもしれないね」
「え…?」
「車に例えてみようか。君の心は、高性能なエンジンを積んだレーシングカーだ。でも、君はこれまで、そのアクセルの踏み方が、分からなかった。だから、暴走するのが怖くて、ずっとブレーキだけを、強く強く、踏み続けてきたんだ。それが、君の言うリミッターの、正体だ」
アクセルと、ブレーキ。
その比喩は、私の思考ルーチンに、すっと理解できた。
「君が、仲間たちと出会い、葵さんと再会したことで、
君は初めて、そのアクセルを、少しだけ踏み込む感覚を覚えた。それが『楽しい』とか『温かい』っていう、感情だ。でも、まだ、踏み方が分からないから、急発進したり、エンストしたりして、君の心も体も、びっくりしてしまった。それが、君が倒れてしまった、理由だよ」
「だからね、しおりさん。君が、今学ぶべきなのは、リミッターの、外し方じゃない。その高性能な、エンジンのアクセルの、踏み方と、そして、上手なブレーキのかけ方、なんだよ」
彼のその、言葉は、私の目の前に、新しい道を、照らし出してくれたようだった。
「それは一朝一夕にできることじゃない。何度も何度も練習して、失敗して、そして少しずつ覚えていくものだ。でも大丈夫。今の君には隣で運転を教えてくれる、仲間たちが、いる。そして、僕というナビも、いる。だから、もう一人で、怖がらなくても、いいんだよ」
富永先生は、そう言って、ただ優しく、微笑んだ。
私は、何も、答えられない。
ただ、その、慈愛に、満ちた、眼差しを、見つめ返すだけだった。
私の、頬を、一筋、熱い、何かが、伝っていく。
それは、私が、少しずつ、思い出し始めている、「涙」という、名前の、感情だった。
私の、本当の「回復」への、運転教習が、今、この、場所から、静かに、始まろうとしていた。