精神科医(2)
しおりさんが、帰った後。
僕は一人、診察室の椅子に、深く腰掛け、そして、静かに、目を閉じた。
(…静寂しおり。13歳。ブロック大会、優勝者。そして…)
彼の、脳裏に、しおりさんの祖父母から、聞いた、彼女の、あまりにも壮絶な、過去の軌跡が蘇る。
(…父親の左遷に、端を発した、家庭環境の崩壊。母親の裏切り。そして、逃げ場のない家庭という密室で、繰り返された、凄惨な暴力。友人を守るために、自ら心を、閉ざし、そして、最後に、死を選ぼうとした、一人の、少女…)
僕は、パソコンに向き直り、彼女のカルテに、所感を書き始める。
患者、静寂しおりは、極めて高い知性と、分析能力を、有している。
しかし、その精神構造は、幼少期に経験した、長期にわたる、深刻なトラウマにより、著しく損傷している、可能性が、極めて高い。
彼女が、自らを表現する「思考ルーチン」や「氷の壁」といった、言葉。
それは、彼女が、耐え難い現実から、自らの、心を守るために、無意識のうちに作り上げた、「解離」という、精巧な、防衛機制であると、考えられる。
感情を「ノイズ」として処理し、他者との間に、壁を作り、論理と計算だけで、世界を構築する。
それは、彼女が、生き延びるための、術だったのだろう。
そして、先日の大会中に、見られたという「本来の、自分」が、表に出てくる、という現象。
あれは、彼女の中に、封印されていた「もう一人の人格」が、仲間からの、強い感情的な刺激を、きっかけに、一時的に現れた状態と、考えられる。
これらの症状は、典型的な、複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)のそれであり、また解離性同一性障害の、基準をも満たす可能性を、否定できない。
富永は、そこで一度、キーボードから、手を離した。
カルテに、記された、それらの、無機質な病名は、しかし、彼女の苦しみの本質を、表しては、いない。
(…彼女は、病気なのでは、ない。ただ、あまりにも、傷つきすぎただけだ)
(そして、その、傷だらけの、心で、たった、一人で、ずっと、戦い続けてきたんだ)
僕は、思い出す。
先ほどの、診察室での、彼女の、姿を。
自分の、心の異常を、必死に、論理で、説明しようとする、その健気さ。
そして、最後に、見せた、あの、一筋の、涙。
(…氷は、溶け始めている)
富永は、確信していた。
あかね、未来、葵、そして、部長。
彼ら、「仲間」という、温かい光が、彼女の、その分厚い、氷の壁を、ゆっくりと、しかし、確実に溶かし始めているのだ、と。
(僕の役目は、治療ではない。ただ、その氷が溶ける、過程で、彼女が、自分自身を、見失わないように、その嵐が過ぎ去るのを、待つ、港であり続けることだ)
僕は、カルテを閉じ、そして、窓の外を見上げた。
空は、どこまでも、青く、澄み渡っている。
「…大丈夫。あなたは、もう、一人じゃない、しおりさん」
彼の、その慈愛に満ちた呟きは、誰に聞こえるでもなく、静かな午後の診察室に、優しく、溶けていった。
彼女の、本当の「回復」への、道は、今、この、場所から、静かに、始まろうとしていた。