回復
私の、本当の「戦い」は、もはやコートの、中だけでは、なかった。
この、私自身の、心の中にある、氷の壁を、どうするのか。
その、答えの、出ない、新しい、戦いが、静かに、始まっていたのだ。
あかねさんとの、会話の後も、私の、思考は、クリアに、ならなかった。
練習に、集中しようとすればするほど、周りの、声や、視線、そして、仲間たちの、温かい言葉が、ノイズとなって、私の、思考を、乱していく。
以前の、私なら、ありえなかった、ことだ。
数日後。
私は、再び、富永先生の、元を、訪れていた。
祖父母に、促された、という、こともある。だが、それ以上に、私自身が、彼に、聞きたいことが、あったからだ。
診察室の、ソファに、腰掛ける、私。
その、向かい側で、富永先生は、ただ、穏やかな、笑みを、浮かべて、私が、口を開くのを、待っている。
その、沈黙が、私に、「何を、話しても、いいんだよ」と、語りかけてくるようだった。
私は、少し、警戒しながらも、意を、決して、口を開いた。
「…先生。私に、何が、起きているのか、教えてください」
「私の、システム…思考ルーチンは、正常なはずです。なのに、最近、外部からの、ノイズに、よって、思考が、阻害される、事象が、多発しています。私の、氷の壁は、もう、機能していないのかもしれない」
富永先生は、静かに、私の、言葉に、耳を、傾けている。
「仮説ですが」と、私は、続けた。「原因は、部長たちとの、交流、そして、葵との、再会にあると、推測されます。彼らとの、接触によって、私の、思考を、制御していた、リミッターが、外れて、しまったのではないか、と。その、結果、私は、本来、不要なはずの、感情を、感じるように、なってしまった…?」
私の、その、必死の、分析。
それを、聞いた、富永先生は、これまでで、一番、優しい、そして、どこか、愛おしむような、眼差しで、私を、見つめた。
「…うん。そうだね。しおりさんの、言う通りだ。君の、その、素晴らしい、分析力には、いつも、驚かされるよ」
彼は、まず、私の、言葉を、全て、肯定した。
そして、ゆっくりと、語り始めた。その、声は、まるで、凍てついた、大地に、降り注ぐ、春の、日差しのように、温かかった。
「しおりさん。君が、ずっと、身に、つけてきた、その『氷の壁』はね、君が、生き延びるために、必要だった、本当にすごい、発明だったんだ。あまりにも、辛くて、苦しい現実から、君の、その繊細で優しい、心を守るための、たった一つの、鎧だった」
「君は、感情を、捨てたわけじゃ、ない。ただ、あまりにも、痛すぎるから、心の、一番深い、場所に、鍵をかけて、大切に、仕舞い込んでいただけなんだ。心理学では、それを、『解離』や、『感情の麻痺』と、呼んだりする。君が、自分を、守るために、必死に、編み出した、生存戦略なんだよ」
彼の、言葉が、私の、心の、氷を、少しずつ、溶かしていく。
「でもね。君は、今、一人じゃない。君の、周りには、君のことを、心から、大切に、思ってくれる、仲間たちが、いる。葵さんが、いる。君の、心は、無意識のうちに、そのことに、気づき始めたんだ。『もう、大丈夫かもしれない』って。『もう、あの、重い、鎧を、脱いでも、いいのかもしれない』ってね」
「君が、感じている、その、胸の、痛みや、息苦しさ。それは、システムの、バグなんかじゃ、ない。エラーでも、ないんだよ。それはね、君が、ずっと、仕舞い込んできた、本当の、君の、心が、『ここだよ』って、君に、呼びかけている、声なんだ。それは、君が、壊れている、証拠じゃ、ない。むしろ、君が、本来の、自分を、取り戻そうとしている、素晴らしい、『回復』の、証なんだよ」
回復、という、言葉。
その、響きが、私の、胸に、ずしりと、重く、そして、温かく、響いた。
「辛いだろう。怖いだろう。今まで、感じなくて、済んだ、たくさんの、痛みを、また、感じなければ、ならないのだから。でもね、しおりさん。君は、もう、一人じゃない。その、痛みも、悲しみも、これからは、君の、仲間たちと、そして、僕と、一緒に、分かち合っていくことが、できる。だから、焦らなくて、いい。ゆっくり、ゆっくり、君の、ペースで、その、心の、声に、耳を、傾けてあげてほしい」
富永先生は、そう、言って、ただ、優しく、微笑んだ。
私は、何も、答えられない。
ただ、その、慈愛に、満ちた、眼差しを、見つめ返すだけだった。
私の、頬を、一筋、熱い、何かが、伝っていく。
それは、私が、ずっと、忘れていた、「涙」という、名前の、感情だった。
私の、本当の、戦いは、そして、私の、本当の「回復」への、道は、今、この、瞬間から、始まろうとしていた。