臨床医
「…ご心配を、おかけしました。私の、体調管理の、ミスです」
私の、その、平坦な声に、部長は、何かを、言いたそうに、しかし、言葉を、飲み込み、そして、ただ、静かに、首を、横に、振った。
葵は、私の、手を、握りしめたまま、心配そうに、私を、見つめている。
その、温かい、感触。
私は、それを、振り払うことは、できなかった。
ただ、その、温もりを、静かに、受け止めるだけだった。
その、時だった。
コンコン、と、控えめな、ノックの、音と、共に、病室の、ドアが、開いた。
入ってきたのは、白い、白衣を、着た、臨床医らしき、男性医師だった。その、優しい眼差しが、私を、捉える。
「おや、目が、覚めたんだね。よかった。気分は、どうかな?」
彼のその、穏やかな、問いかけに、私は、いつも通り、客観的なデータを、提示する。
「…身体的、倦怠感、及び軽度の頭痛と、筋肉痛が、観測されます。ですが、思考は、正常に作動しています。問題ありません」
私の、その、あまりにも、無機質な返答に、医師は、一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに、柔和な、笑みを、浮かべた。
「ははは、そうか。それは、良かった。じゃあ、少しだけ、診察を、させてくれるかな?お友達の方は、申し訳ないが、一度、外で、お待ちいただけるかな?」
その、言葉に、葵と、部長は、名残惜しそうに、しかし、静かに、頷き、病室を、出ていった。
葵が、最後に、もう一度、私の、手を、ぎゅっと、握りしめてくれた、その、温かさが、私の、手のひらに、残る。
医師は、私の、瞳に、ペンライトを、当てたり、聴診器を、胸に、当てたり、いくつかの、基本的な、検査を、手際よく、進めていく。
私は、その、全ての、行為を、ただ、黙って、受け入れた。
「うん。身体の、方は、大丈夫そうだね。軽い、熱中症と、脱水症状だ。点滴を、打てば、すぐに、良くなるだろう」
彼は、そう、言って、カルテに、何かを、書き込んでいる。
そして、ふと顔を、上げて、私に、問いかけた。
「君、すごい試合を、したんだってね。優勝おめでとう。」
「…ありがとうございます」
「試合のこと、覚えてるかな?倒れる、直前のこととか。」
「…はい。データは、記録されています」
私の、その、答えに、彼は、また、少しだけ、不思議そうな、顔をした。
そして、彼は、今度は、医者としてではなく、一人の、人間として、私に、語りかけるように、言った。
「そっか。…でも、君、なんだか優勝したっていうのに、全然、嬉しそうじゃないね。何か、辛いことでもあったのかい?」
彼の、その、あまりにも、直接的で、そして、私の、心の、領域に踏み込んでくる、問い。
私の、思考ルーチンが、警鐘を鳴らす。
「…感情という、パラメータは、勝利確率に影響を、与えないノイズです。故に、制御しています」
私は、そう、答えた。
それが、私の、世界の、真実なのだから。
その、私の、言葉を、聞いた、瞬間。
医師の、その、柔和だった、表情が、すっと、消え、代わりに、深い、深い、専門家としての、思慮の色が、浮かび上がった。
彼は、何も、言わない。
ただ、じっと、私の、瞳の、奥を、覗き込むように、見つめている。
まるで、私の、その、氷の仮面の、下に、隠された、本当の、私を、探しているかのように。
(…この、少女は、異常だ)
医師は、内心で、そう呟いていた。
(肉体的には、何の問題もない。だが、彼女の心は、明らかに、何か重い問題を、抱えている。感情の完全な、欠落。そして、自分自身をまるで他人事のように、語る、その解離した言動。これは、ただの、熱中症の、症状では、ない)
しばらくの、沈黙の後。
彼は、再び、いつもの、優しい、笑顔に、戻った。
「そっか。分かったよ。じゃあ、今日は、ゆっくり、休んでね。点滴が、終わったら、もう、帰れるから」
彼は、そう、言って、病室を、出ていった。
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俺の思考は、次の行動を、既に決めていた。
(…このケースは、私の、専門外だ。だが、このまま、彼女を、帰すわけには、いかない)
俺は、自分のデスクに、戻ると、受話器を手に取った。
そして、ダイヤルを、押す。
相手は、彼が、最も、信頼する、精神科医の、友人だった。
「…もしもし、俺だ。…ああ、急に、すまない。実は、今、少し、気になる、患者さんが、いてね。君の、意見を、聞きたいんだ。…いや、これは、もしかしたら、君の、専門の、分野かも、しれない…」
私の、知らないところで。
私の「静寂な世界」の、その、分厚い、氷の壁に、専門家という、新しい、光が、当てられようとしていた。
それは、私にとって、救済と、なるのか。
あるいは、新たな、混乱の、始まりとなるのか。
その、答えは、まだ、誰にも、分からなかった。