氷の壁
私の新しく始まるはずだった物語は、こんなにも呆気なく、終わりを告げるのだろうか。
最後に、脳裏に焼き付いたのは、私を呼ぶあおの泣き顔。
そして私は、その深い深い闇の中へと、意識を手放した。
どれくらいの時間が、経ったのだろうか。
意識がまるで、深い海の底から、ゆっくりと浮上してくるかのように、徐々に戻ってくる。
耳に届くのは規則正しい、電子音。ピッ、ピッ、ピッ、という無機質な音。そして、誰かの静かな、寝息。
(…ここは…?)
重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。
最初に、視界に入ったのは、
ぼんやりとした、白い天井と、眩しい蛍光灯の、光だった。
消毒液の、ツンとした匂いが、鼻腔をくすぐる。
状況を理解するのに、数秒を要した。
ここは、私の部屋ではない。病院の、一室だ。
私は、ゆっくりと、自分の、体を、観察する。
腕には、点滴の、針が刺さっており、そこから、チューブが、伸びて、点滴スタンドに、繋がっているのが、見えた。
身体が、鉛のように、重い。
全身の、倦怠感と、筋肉痛。そして、喉が、焼けるように、渇いている。
(…熱中症、及び脱水症状。試合中の、身体的、精神的負荷が、私の身体能力の、許容量を、超過した、結果か。合理的帰結だ)
私の、思考ルーチンは、いつものように、冷静に、状況を、分析していた。
(…そうだ。試合は、どうなった?私は、勝ったのか?負けたのか?)
決勝戦の、記憶が、断片的に、蘇る。
山上との、試合。葵の声援。そして、私が、最後に、放った、一球。
そうだ。私は、勝ったんだ。
その、事実を、思い出した、瞬間。
私の、胸の奥底で、あの、試合の最中に感じたはずの、温かい、感情が、蘇りそうになる。
だが、今の、私には、それが、分からない。
あの、「楽しい」という、感情。あれは、一体、何だったのだろうか。
あの時、ラケットを、振っていたのは、本当に、私だったのだろうか。
まるで、夢の中の、出来事のように、現実感が、ない。
(…葵は、どうしただろうか)
彼女の、泣き顔が、脳裏を、よぎる。
私が、最後に、見た、彼女の、顔。
そして、私が、最後に、呼んだ、彼女の、名前。
「あお」と。
その、記憶の、断片が、私の、胸の奥を、ちくりと、刺す。
(…あの時の私は、正常ではなかった。思考に、深刻な、エラーが、生じていた。感傷という、最も、非合理的な、ノイズに、支配されていた)
そうだ。
あれは、バグだ。
システムの、一時的な、不具合。
私は、再び、起動する。
もう、あんな、脆い、自分には、戻らない。
その時、私が、身じろぎした、気配に、気づいたのだろう。
私の、ベッドの、横で、椅子に、座ったまま、眠っていた、大きな、影が、ゆっくりと、顔を、上げた。
部長だった。
彼の、顔には、深い、疲労と、そして、私への、心配の、色が、浮かんでいる。
「…しおり。…目が、覚めたか」
その声は、いつものような、大声ではなく、静かで、そして、どこか、安堵したような、響きを持っていた。
彼の、その、声に、私の、心の、氷の壁が、ほんの、少しだけ、溶けそうになるのを、私は、必死に、堪えた。
「…部長」
私が、そう、呼ぶと、彼の、隣で、同じように、眠っていた、もう一人の、影も、目を、覚ました。
葵だった。
彼女の、瞳は、まだ、少し、赤い。
あかねさんと、未来さんは、もう、帰されたのだろう。
「しおりっ…!よかった…!」
葵が、私の、手を、ぎゅっと、握りしめてくる。
その、手の、温かさ。
私は、それを、振り払うことが、できなかった。
ただ、その、温もりを、静かに、受け止めるだけだった。
「…ご心配を、おかけしました。私の、体調管理の、ミスです」
私は、平坦な、声で、そう、言った。
部長は、そんな、私を見て、何かを、言いたそうに、しかし、言葉を、飲み込み、そして、ただ、静かに、首を、横に、振った。
私の、新しい、物語は、またしても、この、白い、部屋から、始まろうとしている。
だが、今度は、もう一人じゃない。
その、事実が、私の「静寂な世界」に、どのような、変化を、もたらすのか。
それは、まだ、誰にも、予測できない、新しい、実験の、始まりだった。