泡沫夢幻の今(5)
その、確かな温もりを感じながら、私は、ただ、優しく、彼女の、頭を、撫で続けた。
背後で、未来さんが、呆れるくらい、温かい、眼差しで、私たちを、見守っていることにも、気づかないまま。
どれくらい、そうしていただろう。
ようやく、お互いの、涙が、おさまった頃、私たちは、どちらからともなく、体を、離した。
葵は、まだ、少し、恥ずかしそうに、俯いている。自分からくっついてくるのに、照れてしまう、耳が、真っ赤になっているのが、なんだか昔のままで、可愛らしい。
「…ねえ、あお」
私がそう、呼びかけると、彼女の、肩が、びくりと、震えた。
「なに?しおり」
「お腹、すかない?私、なんだか、すごく、お腹すいちゃった」
「え…?う、うん…!私も!」
「じゃあ、後で、大会が終わったら、食べに行こうか。クレープとか、どうかな」
「クレープ!行く、絶対、行く!」
そんな、本当に、他愛のない、昔のような会話。
それだけで、私たちの、空白だった、数年間が、嘘のように、埋まっていく気がした。
未来さんは、そんな、私たちの、様子を、ただ、静かに、そして、どこか、慈しむような、優しい、笑みを、浮かべて、見守っていた。
その時だった。
「おーーーーい!しおりー!未来さーん!葵ちゃーん!」
体育館の、向こう側から、大きな、そして、弾むような、声が聞こえた。
部長と、あかねさんだ。
どうやら、彼の、試合も、終わったらしい。その、全身から、勝利の、喜びが、溢れ出ているのが、遠目にも、分かった。
二人は、私たちに、気づくと、こちらへと、駆け寄ってくる。
そして、部長は、私の前に立つと、得意げに、胸を張り、そして、こう、言った。
「どうだ、しおり!お前が毎回言うもんだからな、心臓に悪いデュースに持ち込むこともなく、ストレートで、ビシッと、勝ってやったぜ!」
彼の、その、あまりにも、彼らしい、勝利報告。
以前の、私なら、「非効率的な、デュースを、回避したのは、評価しますが、ストレート勝ちは、当然の、結果です」とでも、冷たく、返しただろう。
だが、今の、私は、違った。
私は、彼の、その、子供のような笑顔を見て、自然と、心の底から、笑顔が、こぼれていた。
「うん、流石部長だね。これでお互いに決勝に進める。部長、本当におめでとう。」
私の、その、素直な、祝福の、言葉。
そして、その、屈託のない、笑顔。
それを、見た、瞬間。
部長と、あかねさんの、動きが、ぴたりと、止まった。
二人は、目を、丸くして、信じられない、といった、顔で、私を、見つめている。
「……え?」
「……し、しおり、ちゃん…?」
二人の、困惑した、声。
無理もない。
彼らが、知っている、私は、氷の仮面を、被り、感情を、ノイズとして、処理する、「静寂の魔女」だったのだから。
その、私が、今、こんなにも、普通に、笑っている。
(…あ。そっか。二人とも、こんな、私、知らないんだっけ)
私は、少しだけ、照れくさくなって、頬を、掻いた。
部長と、あかねさんは、顔を、見合わせ、そして、何かを、アイコンタクトで、語り合っている。
(おい、あかね、どういうことだ、これ…)
(わ、私にも、分からないよ、部長先輩…でも…)
(ああ。でも、まあ…)
二人は、再び、私へと、向き直る。
その、表情には、まだ、困惑の色は、残っている。だが、それ以上に、温かい、そして、優しい、色が、浮かんでいた。
彼らは、気づいたのだ。
この、私の、変化が、決して、悪いものでは、ない、ということに。
そして、彼らは、何も、言わずに、何も、なかったかのように、振る舞うことを、選んでくれた。
「お、おう…!サンキューな、しおり!お前の、応援の、おかげかもな!」
部長が、少しだけ、ぎこちなく、しかし、力強く、そう言って、笑う。
「うん!本当におめでとうございます、部長先輩!しおりも、準決勝、勝ったんだもんね!」
あかねさんも、そう言って、満面の、笑みを、見せてくれた。
その、二人の、不器用な、優しさが、私の、胸の中に、じんわりと、広がっていく。
そうだ。
私の、周りには、もう、こんなにも、温かい、光が、満ちている。
私は、もう、一人じゃない。
決勝戦。
「みんな!最後のトーナメント表の確認、しに行こっか!」