泡沫夢幻の今(3)
長くて、そして苦しかった、私たちの過去との決別であり、そして、新しい未来の始まりを告げる、涙だった。
どれくらいの、時間が、経ったのだろう。
私の嗚咽が、少しずつ、収まってきた頃、私は、ゆっくりと、葵のその小さな体から、離れた。
彼女の瞳は、まだ涙で濡れている。でも、その奥には、私がずっと見たかった、あの、太陽のような、温かい、光が、宿っていた。
その光を見て、私の心の、奥底に、封印していた、過去の、記憶が、再び、溢れ出してくる。
あの日、私が、振り払った、彼女の、手。
あの日、私が、背を向けた、彼女の、泣き顔。
私が、自分を守るために、捨ててきた、たくさんの宝物。
その、一つ一つが、鮮明に蘇り、私の胸を、締め付ける。
「………。」
私の、視線が、どこか遠くを、彷徨っているのに、気づいたのだろう。
葵が、心配そうに、私の顔を、覗き込んできた。
「…どうしたの?しおり」
彼女が、昔のように、ごく自然に、私の名前を、呼んだ。
その声に、私は、はっと、我に返る。
そして、私は、初めて、彼女に、問いかけることが、できた。
私が、ずっと、聞きたかった、でも、聞くことが、怖かった、問いを。
「…ねえ、あお」
私の、口から、自然と、昔の、呼び名が、こぼれる。
「…あの後、あおは、どうしてたの?私が、いなくなってから…」
私の、その問いに、葵は、一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、すぐに、いつもの、明るい笑顔を見せた。
「うん。あのね」
彼女は、ゆっくりと、話し始めた。
「しおりが、突然いなくなって、私、最初は何が、起きたのか、分からなかった。次の日も、その次の日も、学校に、しおりは、来なくて…。先生に、聞いても、『家庭の事情で、引っ越した』って、教えてくれるだけ。どこに、引っ越したのか聞いても、『個人情報だから、教えられない』って、はぐらかされちゃって」
彼女の声は、明るかった。でも、その奥に、当時の彼女が、感じていたであろう、深い、絶望と孤独が、滲んでいるのが、私には、分かった。
「私ね、その時たった一人の親友を、失っちゃったんだ。世界で、一番大切な宝物を、誰にも気づかれずに、盗まれちゃった、みたいな、感じ」
「それでね、私、必死に、考えたんだ。どうすれば、もう一度、しおりに、会えるかな、って。でも、小学生の、私に、できることなんて、何にも、なくて…」
彼女は、そこで一度言葉を、切り、そして、自分の胸に、抱いている、ラケットケースを、ぎゅっと、握りしめた。
「でもね、一つだけ、残ってたんだ。私と、しおりを、繋ぐ、ものが」
「それが、しおりと、一緒に、練習していた、この、卓球だけだった」
「だから私、決めたんだ。この、細い細い、卓球という、糸を辿っていけば、いつか、必ずしおりに、再会できるって、信じて。そこから、本格的に、クラブに入って、とにかく、上へ、上へと、上がっていくことだけを、考えた」
その、あまりにも、一途で、そして、健気な、想い。
私の、胸が、きゅうっと、痛くなった。
「練習は、辛かったけど、でも、全然、平気だった。だって、しおりのことを、思い出せば、どんな、練習も、乗り越えられたから」
彼女は、そう言って、少しだけ、照れくさそうに、笑った。
「特に、ドライブの、練習。あなたの、あの綺麗な、ドライブを、真似して、毎日毎日、打ち込んだんだ。あなたの、その、ドライブが、私と、あなたを、繋ぐ、絆が、断ち切られていない、っていう、証だって、信じて」
「そして、いつの間にか、そのドライブが、今の、決め球になってた、ってわけ」
彼女の、その、告白。
私は、何も、言えなかった。
私が、捨ててきたはずの、過去。
私が、忘れたかった、記憶。
その全てを、彼女は、たった、一人で、ずっと大切に、大切に、守り続けて、くれていたのだ。
私が、彼女を、裏切った、あの日から、ずっと。
私の、瞳から、再び、熱い、何かが、零れ落ちる。
でも、それは、もう悲しみの涙では、なかった。
ただ、ただ、温かい、感謝の涙だった。
「…そっか」
私は、かろうじて、そう、声を、絞り出した。
「…そうだったんだね、あお」
ありがとう。
その、一言が、どうしても、言えなくて。
私は、ただ、もう一度、彼女の、その、温かい、体を、強く、強く、抱きしめ返すことしか、できなかった。