過去への栞(6)
「…あなたには、関係ない。もう、私に、話しかけないで」
私が、そう、言って、彼女の、手を、振り払った、あの日から。
私たちの、世界は、完全に、分かれてしまった。
私は、学校でも、家でも、ただ、息を、殺して、生きるだけの、人形になった。
氷の、仮面を、被り、誰とも、目を、合わさず、ただ、時間が、過ぎるのを、待つだけ。
それでも、葵は、諦めなかった。
彼女は、毎日、毎日、私の、元へ、やってきた。
休み時間、下駄箱、帰り道。
その、度に、私は、彼女を、冷たい、言葉で、突き放した。
「やめて」
「来ないで」
「あなたとは、もう、友達じゃない」
その、度に、私の、心は、張り裂けそうに、痛んだ。
ごめんね、あお。ごめんね。
本当は、抱きしめて、助けて、って、叫びたいのに。
「しおり、お願い、話を聞いて!」
ある日の、放課後。帰り道で、ついに、葵が、私の、腕を、掴んだ。
その、瞳には、涙が、いっぱいに、溜まっている。
「先生に、ううん、誰か、大人に、相談しよ?私が、絶対に、しおりの力になるから!」
その、言葉が、私の、最後の、理性を、打ち砕いた。
力に、なる?
違う。違うんだよ、あお。
あなたの、その、優しさが、あなた自身を、地獄に、突き落とすんだ。
「…いい加減にして」
私は、彼女の、手を、全力で、振り払った。
「あなたの、せいで、迷惑してる。もう、二度と、私の、前に、現れないで」
それは、私が、彼女に、放った、最後の、そして、最も、残酷な、嘘。
葵は、その場に、立ち尽くし、ただ、静かに、涙を、流していた。
私は、一度も、振り返らずに、その場を、走り去った。
これで、いい。
これで、あおは、もう、私に、関わらないだろう。
これで、あの子は、安全だ。
私の、心は、もう、何も、感じなかった。
ある日。
私は、もう、耐えられなくなった。
父の、暴力。母の、冷たい、目。そして、あおを、失った、という、絶対的な、孤独。
もう、何もかも、どうでも、よかった。
楽に、なりたかった。
この、息の詰まる、世界から、消えてなくなりたかった。
その日の、朝。
私は、いつもより、少しだけ、早く、家を出た。
そして、交通量の、多い、国道の、歩道に、立った。
トラックが、バスが、猛スピードで、私の、横を、通り過ぎていく。
その、風圧に、私の、体が、揺れる。
(…これで、終われるんだ)
私は、目を、閉じた。
そして、一台の、トラックが、近づいてくる、その、タイミングで、車の、前に、飛び出した。
「キィィィィィィーーーーーッッ!!」
耳を、劈くような、急ブレーキの、音。
そして、体に、走る、強い、衝撃。
私の、小さな、体は、紙切れのように、宙を、舞い、そして、アスファルトに、叩きつけられた。
(…あれ…?痛い、な…)
薄れゆく、意識の、中で、私は、そんな、ことを、考えていた。
死ぬ、って、こんなに、痛いんだ。
でも、これで、やっと、楽に、なれる…。
「おい!大丈夫か!しっかりしろ!」
誰かの、大きな、声が、聞こえる。
知らない、男の人の、声。
ゆっくりと、目を開けると、そこには、心配そうに、私の、顔を、覗き込む、人の、良さそうな、中年の、男性が、いた。
彼は、私が、気を失わないように、必死に、声を、かけ続けてくれている。
「救急車は、呼んだからな!動くなよ!」
彼は、私の、腕の、傷口を、自分の、ハンカチで、強く、押さえてくれている。
その時、彼の、目が、私の、制服の、袖から、覗く、無数の、青黒い、痣に、気づいたのが、分かった。
彼の、表情が、驚きから、深い、悲しみと、そして、静かな、怒りの、色へと、変わっていく。
やがて、救急車の、サイレンが、近づいてくる。
救急隊員の、人が、私の、体を、担架に、乗せる。
そして、私の、服を、ハサミで、切り裂いた、その時。
私の、体に、刻まれた、無数の、痣や、カッターの、傷跡が、全て、日の光の、下に、晒された。
周りの、大人たちが、息をのむ、気配がした。
「…ひどい…これは、事故の、傷じゃ、ない…」
誰かの、そんな、声が、聞こえた。
そうか。
バレたんだ。
私の、必死に、守ってきた、嘘が、こんな、形で、終わるなんて。
でも、もう、どうでも、よかった。
私は、私を、助けてくれた、あの、知らない、おじさんの、顔を、思い浮かべていた。
そういえば、あの人。
どこかで、見たことが、あるような…。
ああ、そうだ。
町の、小さな、卓球用品店で納入していた、確か…遠藤さんだ。
私の、意識は、そこで、完全に、途切れた。
私の、長くて、暗い、夜が、ようやく、終わろうとしていた。