過去への栞(5)
私は、何も、言えなかった。
ただ、呆然と、立ち尽くす、葵の、その、信じられない、といった、表情を、見つめ返すだけだった。
私たちの、ささやかな「聖域」が、音を立てて、崩壊していく。
そして、その、光景を、更衣室の、開いた、ドアの、隙間から、迎えに来ていた、私の、母親が、冷たい、瞳で、じっと、見ていたことを、私は、まだ、知らなかった。
「…あら、葵ちゃん。どうしたの、そんなところで」
母の、その、静かな、声に、私と、葵の、肩が、びくりと、震えた。
母は、表情一つ、変えずに、私たちに、近づいてくる。
「しおりは、少し、気分が、悪いみたいだから。今日は、もう、帰りましょうね。葵ちゃんも、気をつけて、帰るのよ」
その、あまりにも、普通で、そして、有無を、言わせない、口調。
葵は、何かを、言いたそうに、私を、見ていたけれど、母の、その、冷たい、圧力の、前に、何も、言えずに、ただ、小さく、頷き、そして、逃げるように、更衣室を、出ていった。
その、夜。
私の、家は、これまでで、一番の、地獄となった。
葵が、見てしまった、という、事実。
それが、父の、最後の、理性の、タガを、外したのだ。
「お前のせいだ!」
「お前のせいで、全部、バレちまうじゃねえか!」
ビンが、投げつけられ、壁に、当たり、砕け散る。
私は、ただ、部屋の、隅で、小さく、蹲るしか、できなかった。
そして、母は。
自分が、標的に、ならないように、ただ、静かに、その、光景を、見ているだけだった。
嵐が、過ぎ去った、後。
父が、寝静まった、後で、母が、私の、部屋へと、やってきた。
私は、彼女が、私を、心配して、来てくれたのだと、ほんの少しだけ、期待してしまったのかもしれない。
だが、彼女の、口から、出たのは、私の、その、最後の、希望すらも、打ち砕く、あまりにも、残酷な、言葉だった。
「…しおり」
彼女の、声は、冷たく、そして、何の、感情も、なかった。
「今日のこと、あの子…葵ちゃんが、誰かに、話したら、どうなるか、分かる?」
私は、何も、答えられない。ただ、震えるだけ。
「お父さんの、仕事も、私たちの、生活も、全部、おしまい。そして、そうなったら、お父さんが、どうなるか、あなたなら、分かるわよね?」
母は、私の、目を、じっと、見つめて、言った。
「もし、バレるようなことがあれば、お父さんは、あの子…葵ちゃんも、許さないでしょうね。」
「あの子の、家に、行って、何を、するか、分からないわよ?」
その、言葉。
それは、私にとって、死の、宣告よりも、重い、言葉だった。
あおを、巻き込む。
私の、たった一つの、光を。
私の、たった一人の、親友を。
この、地獄に、引きずり込む、というのか。
(…いやだ)
(それだけは、絶対に、いやだ…!)
その日から、父の、暴力は、さらに、エスカレートした。
それは、もはや、感情の、爆発では、ない。
私を、完全に、支配し、そして、外部に、何も、漏らさないようにするための、冷徹な、儀式。
カッターで、服の、下、見えないところを、薄く、切られる、という、行為が、始まった。
痛みと、恐怖。
そして、母は、その、共犯者だった。
私は、決意した。
この、地獄から、葵を、守るために。
私が、すべきことは、たった、一つ。
あおを、私から、遠ざけること。
私と、関われば、不幸になるのだと、彼女に、思わせること。
彼女に、私を、嫌いに、なってもらうこと。
次の日、学校で、葵が、心配そうに、私に、声を、かけてきた。
「しおり、昨日のこと…」
私は、彼女の、その、言葉を、遮った。
そして、これまでの、人生で、一度も、浮かべたことのない、氷のように、冷たい、仮面を、被り、そして、言ったのだ。
「…あなたには、関係ない。もう、私に、話しかけないで」と。
それが、私の、葵への、最後の、優しさであり、そして、私たちの、友情の、終わりの、始まりだった。