過去への栞(4)
家に帰れば、地獄。
学校へ、行けば、あおとの、楽しい時間。
私の毎日は、その二つの世界を、行ったり、来たりする、綱渡りのような、ものだった。
ビンを、投げつけられ、罵声を、浴びせられる、夜。
水に、顔を、押し付けられて、窒息しそうになる、苦しみ。
そして、そんな、私を、見て見ぬふりをする、お母さんの、冷たい、瞳。
お母さんは、自分が、標的にならないように、立ち回ることを、覚えてしまった。時には、お父さんと、一緒になって、私を、責めることさえ、あった。
でも、朝になれば、私は、何事も、なかったかのように、あおを、迎えに行く。
「おはよう、あお!」
「おはよう、しおり!」
彼女の、その、太陽みたいな、笑顔を、見ると、不思議と、私も、笑うことができた。
私は、普通の子を、演じていた。
ううん、違う。
あおと、一緒に、いる、時間だけは、私は、本当に、「普通の子」に、戻れていたのかもしれない。
だが、そんな、綱渡りの、日々も、いつまでも、続くわけでは、なかった。
私が、演じることに、疲れてきた、その時。
それは、本当に、些細な、きっかけだった。
その日、公民館での、卓球の、練習の後。
二人で、いつものように、神社の、境内で、ジュースを、飲んでいた。
「しおり、腕、どうしたの?その、傷」
あおが、私の、腕を、指差して、言った。
そこには、昨日の夜、お父さんが、投げつけた、ビンの、破片で、切った、小さな、傷が、あった。
私は、必死に、隠していた、つもりだったのに。
「あ、これ?ううん、なんでもないよ。昨日、家の、手伝いしてて、ミスって、切っちゃっただけだから」
私は、笑って、そう言った。
我ながら、あまりにも、雑な、嘘だったと思う。
あおは、「そっか…。気をつけてね」と、取り敢えず、納得してくれたようだった。
でも、その日から、彼女が、私を、見る、目が、少しだけ、変わったのを、私は、感じていた。
どこか、心配そうで、そして、何かを、探るような、そんな、目。
彼女は、より、注意深く、私を、見るようになったのだ。
そして、運命の、日が、やってくる。
その日も、私たちは、公民館で、卓球の、練習を、していた。
練習が、終わり、私は、いつものように、更衣室で、一人、着替えようとしていた。
その時だった。
「――しおり、忘れ物…」
がちゃり、と、音を立てて、更衣室の、ドアが、開いた。
そこに、立っていたのは、葵だった。
そして、彼女は、見てしまったのだ。
私の、制服の下に、隠されていた、無数の、痣を。
腕に、足に、そして、背中に。
青黒く、広がった、暴力の、跡。
「………あ…」
葵が、息をのむ。
彼女の、手から、持っていた、水筒が、滑り落ち、床に、ガンッ!と、大きな、音を、立てた。
その、音で、私は、全てを、悟った。
見られた、と。
私の、必死に、守ってきた、最後の、嘘が、今、完全に、崩れ去ったのだ、と。
私は、何も、言えなかった。
ただ、呆然と、立ち尽くす、葵の、その、信じられない、といった、表情を、見つめ返すだけだった。
私たちの、ささやかな「聖域」が、音を立てて、崩壊していく。
そして、その、光景を、更衣室の、開いた、ドアの、隙間から、迎えに来ていた、私の、母親が、冷たい、瞳で、じっと、見ていたことを、私は、まだ、知らなかった。