過去への栞
私の新しい学校での生活は、小学二年生の、秋に始まった。
お父さんの、仕事の都合で、私たちは、都会の賑やかな街から、この、空が、どこまでも広い、静かな田舎町へと、引っ越してきた。
転校初日、私が教室に入ると、みんなの視線が一斉に、私に集まったのを、覚えている。
「都会から、来た子だって!」
「髪、長いね!綺麗!」
最初は、物珍しさもあったのだろう。クラスのみんなは、私にとても優しくしてくれた。休み時間には、いつも、私の周りに人だかりができて、東京の話や、テレビの話で、盛り上がった。
でも、私は、心のどこかで分かっていた。
この、賑やかさは、きっと長くは続かない、と。
なぜなら、家に帰れば、お父さんの、機嫌の悪い声がして、お母さんは、いつも悲しそうな、顔をしていたから。
私の、世界は、もう、昔のように、キラキラとはしていなかったからだ。
そんな私の目に、一人の、女の子の、姿が、留まるようになった。
日向 葵さん。
彼女は、いつも、一人だった。
休み時間も、昼休みも、教室の隅の、自分の席で、小さな、スケッチブックに、黙々と、絵を描いているだけ。
誰も、彼女に、話しかけない。
まるで、彼女が、そこに、いないみたいに。
クラスの、中心的なグループの女の子たちが、時々、彼女のことを遠くから見て、ひそひそと、何かを話しているのを、私は、知っていた。
それはきっと、良くない、お話だ。
(…どうして、なのかな)
私は、窓の外を、眺めるふりをしながら、ずっと、彼女のことを見ていた。
(あんなに可愛い絵を描くのに。どうして、誰も見てあげないんだろう。一人で、寂しくないのかな…)
私の、胸の奥が、少しだけ、ちくりと痛んだ。
それは、私が、家で、一人で、いる時に、感じる、痛みに、少しだけ、似ていた。
私が、彼女に、声をかけてみようと決意した、ある日の、ことだった。
その日も、彼女は、一人で、絵を、描いていた。
私が、彼女の席に近づこうとした、その時。クラスの、中心的な、グループの、リーダー格の、女の子が、私の前に、すっと、立ち塞がった。
「ねえ、しおりちゃん。あの子には、関わらないように、した方が、いいよ」
その子の声は、私への優しさを、装っていたけれど、その、瞳の奥には、冷たい光が、宿っていた。
「どうして?」
私が、そう
聞き返すと、彼女は、少しだけ、意地悪く、笑った。
「んー、なんとなく?あの子、暗いし、変だから。ね、だから、私たちと、遊ぼうよ」
彼女は、そう、言って、私を、自分たちの、グループへと、誘う。
その、手を取れば、私は、これからも、このクラスで、楽しく、やっていけるだろう。
でも、その、手を、取らなければ?
私は、きっと、あの子と、同じように、一人ぼっちに、なってしまう。
私は、リーダー格の、女の子と、そして、その、向こう側で、一人、絵を描いている、葵の、小さな背中を、見比べた。
そして、私は、決めた。
私は、リーダー格の、女の子の、横を、すり抜け、そして、葵の、机の、前へと、歩いていった。
背中に、冷たい、視線が、突き刺さるのを、感じた。
でも、私は、もう、迷わなかった。
「…あの」
私が、声をかけると、葵の小さな肩が、びくりと、震えた。
彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。その瞳には、驚きと怯えと、そして、涙がいっぱいに、溜まっていた。
私は、彼女が、描いていた、スケッチブックを、覗き込んだ。
そこには、空いっぱいに広がる、七色の、虹が、描かれていた。
「………すごい。きれいな、色」
私の、その言葉に、彼女の瞳から、ぽろり、と、一筋の涙が、零れ落ちた。
私は、そんな、彼女に、少しだけ、照れくさいような、でも、精一杯の、笑顔で、言った。
「私、静寂しおり。よろしくね」
その日から、私の隣には、いつも、葵がいた。
私たちは、クラスの誰とも、話さなくなった。
でも、不思議と、寂しくはなかった。
彼女は、私の生まれて初めての、「親友」になった。