勝利と重り
俺は、天に向かって、拳を突き上げた。
勝った。
俺たちが、勝ったんだ。
ネットの向こう側で、空知が、膝に手をつき、悔しそうに、しかし、どこか、清々しい顔で、息を整えている。
俺たちは、ネット際に歩み寄り、固い握手を交わした。
「…いい試合だった。強かった、部長くん。」
「お前もな、空知。最高の試合だった。ありがとうな。」
お互いの健闘を、称え合う。そこには、ただ、一人の選手としての、純粋なリスペクトだけが、あった。
「――部長せんぱーい!おめでとうございます!」
ベンチから、あかねが、泣き笑いのような、顔で駆け寄ってくる。
俺は、その頭をわしわしと撫でてやりながら、観客席にいる、仲間たちの、元へと、向かった。
しおりも、未来も、そして、いつの間にかすっかりチームに馴染んでいる、日向も、俺の勝利を喜んでくれているだろう。
日向、俺はお前のチームメイトを脱落させた訳だが、それでいいのか?
観客席の、一角。
二人がこちらを、見て、拍手を送ってくれていた。
俺は、その二人と静かに座っているしおりの元へと、歩み寄る。
「おー、しおり!未来!日向も、応援サンキューな!」
俺がそう言うと、未来が、静かに微笑んで頷いた。
「お見事でした、部長さん。本当に素晴らしい、試合でした」
だが、俺は、すぐに気づいた。
その場の空気の、ほんのわずかな「違和感」に。
しおりだ。
彼女は、確かにこちらを見ている。だが、その表情は、いつも以上に、能面のようで、どこか遠くを見ているような、そんな、空虚な感じがした。
(…なんだ?どうしたんだ…?)
以前の彼女なら、俺がこんなギリギリの試合をしていれば、試合後必ず「非効率的です」だの、なんだのと、皮肉の、一つや二つ、言ってきたはずだ。
だが、今の彼女には、その棘がない。
以前の時のような、負けたときの焦燥感は、見えなかったが、それ以上に、何の感情も、読み取れないのだ。
「…その様子だと、そっちも勝ったみたいだな。お疲れさん。」
俺は、努めて明るく、彼女に声をかけた。
「…だが、なんだ?何か、あったのか?」
俺の、その問いに答えたのは、しおりでは、なかった。
未来が、静かに状況を、説明し始めた。
「はい、部長さん。しおりさんは、二回戦勝利しました。ですが、その決着の、仕方が、少し、特殊でして…」
未来は、第一セットが、11-0であったこと、そして、相手の田中選手が、インターバル中に、棄権を申し出たことを、淡々と語った。
その、未来の言葉に、隣にいた葵が、被せるように、言った。
その声には、時間が大分空いているにも関わらず、まだ抑えきれない、憤りが、滲んでいる。
「棄権、じゃありません。逃げたんです、あの子は。県大会チャンピオンの、しおりと、戦う、誇りも覚悟も、ないただの、臆病者です!」
その、葵のあまりの、剣幕に、俺とあかねは、ただ、圧倒される。
(…こいつの、しおりへの、想いは、一体、なんなんだ…)
俺は、その会話の中心にいるはずの、しおりへと、視線を、戻した。
彼女は、何も、言わない。
ただ、黙って、自分のラケットケースを、見つめている。
その横顔は、いつも通り、無表情だ。
だが、そのあまりにも、静かすぎる、その姿が、俺に、言いようのない、違和感を、感じさせた。
まるで、心が、ここにない、みたいだ。
「…しおり。問題ない、ってんなら、いいんだが…」
俺が、そう言うと、彼女は、初めてゆっくりと、顔を上げた。
そして、ほんのわずかに、首を傾げ、そして、静かに、言った。
「…はい。問題、ありません。全て、合理的な、帰結です」
その、言葉。
その、表情。
全てが、いつも通りの、彼女のはずだった。
なのに、なぜだろう。
その、氷の壁の反対で、彼女が、たった一人で、泣いているような、そんな気がして、ならなかった。
俺は、それ以上、何も、言えなかった。
ただ、この複雑で、そして不器用な俺の、後輩たちを、主将として、どう、導いていけばいいのか。
その、答えの出ない、問いだけが、勝利の高揚感の、代わりに、俺の胸に、重くのしかかっていた。