想定外
この、勝利に、何の、感情も、ない。
ただ、一つの、プロセスが、終わっただけなのだから。
ベンチに戻ると、未来さんが、静かにタオルとドリンクを、差し出してくれた。
その彼女の、深淵のような瞳には、私の、そのあまりにも無慈悲な戦いぶりに、対する畏怖と、そして、どこか、ほんの少しの悲しみのような色が、浮かんでいた。
私は、ドリンクを一口、口に、含む。
そして、視線は、自然と相手のベンチへと、向けられた。
そこでは、東山中学のコーチが、必死に、田中選手に、何かを、語りかけている。
だが、田中選手は、ベンチに深くうなだれたまま、首を、力なく横に振るだけだ。その肩が、小さく、震えている。彼女は、泣いていた。
やがて、相手のコーチが、何かを諦めたように、深いため息をつき、そして、審判の、方へと歩み寄った。
審判とコーチが、言葉を、交わす。
そして、審判が立ち上がり、館内に向かって、声を、張り上げた。
「第二セット開始前に、東山中学、田中選手の棄権が申し出られました。よって、この試合、第五中学、静寂選手の、勝利となります!」
そのアナウンスに、体育館の、その一角が、ざわめきに、包まれる。
「え、棄権?」
「1セット、やっただけだろ?」
「ていうか、スコア、11-0だったぞ…」
「…静寂しおりと、戦うと心が壊されるって、噂、本当だったんだ…」
そのノイズの全てを、私は、ただ、冷静に、観測していた。
…冷静だったとおもう。
隣で、未来さんがぽつりと、呟いた。
「…しおりさん。あなたは…。時に、相手から、戦うという、選択肢そのものを、奪ってしまうのですね」
その、彼女の言葉に、私は静かに、答える。
「…彼女が、自ら選択して、選んだことです。」
私の、心には、何の、揺らぎも、ない。
ないはずだ。
私たちが、荷物をまとめ、その場を、立ち去ろうとした、その時だった。
観客席から、一人の少女が、嵐のような勢いで、駆け下りてきた。
日向 葵だ。
彼女は、私の前に立つと、その瞳に、怒りの炎を、燃え上がらせて、叫んだ。
「しおり!見たよ、今の!なんなの、あの子!」
彼女の、その怒りの矛先は、私ではなく、棄権した、田中選手へと、向けられていた。
「信じられない!県大会チャンピオンの、あなたを、相手に、たった、一セットで、試合を、投げ出すなんて!あなたへの敬意が、なさすぎる!最大の侮辱よ、あれは!」
葵は、本気で怒っていた。
私は、その葵のあまりにも真っ直ぐな、そして、私への、強い、想いに、言葉を、失っていた。
未来さんが、そんな、私たちの、間に、そっと、入る。
「日向さん、落ち着いて。彼女もきっと、必死だったのです」
その、三人の、奇妙な、やり取り。
それは、これから、始まる、私の、新しい、人間関係の、複雑さと、そして、どこか、温かさを、予感させる、ほんの、始まりの、場面に、過ぎなかった。