過去との対話(10)
「その代わり…あなたのこと、もっと、知りたいな。今の、あなたの、ことを。」
私は、そう言った。
それが、今の、私にできる、精一杯の、誠実な想いだった。
もう、昔のあなたを、追い求めない。
今の、あなたを、知りたい。
ただ、それだけ。
きっと、彼女は、何も答えてはくれないだろう。
あるいは、「無意味です」と、冷たく、突き放されるかもしれない。
それでも、良かった。
私は、ただ、伝えたかったのだ。
私は、もう、あなたの敵ではない、と。
私は、覚悟を決めて、彼女からの、拒絶の言葉を、待っていた。
だが、彼女は、何も言わなかった。
ただ、じっと私に、視線を、向けたまま、固まっている。
その、氷の仮面の下の瞳の奥で、彼女の思考ルーチンが、猛烈な速さで、回転しているのが見て取れた。
(…やっぱり、私の言葉は、あなたを混乱させてしまっただけ、なのかな…)
そう、私が、諦めかけた、その時だった。
彼女の、その、小さな手が、ゆっくりと、持ち上げられた。
そして、
――私の、ベンチの上で、固く、握りしめられていた、私の、手の上に、そっと、重ねられた。
「……え?」
私の、思考が、完全に、停止する。
なに?
今、何が、起きたの?
てのひらに、伝わる、ほんのりと、しかし、確かな、温かさ。
それは、間違いなく、しおりの、手の、温かさだった。
私は、信じられない、といった、思いで、重ねられた、二つの手と、そして、彼女の顔を交互に見る。
彼女の、顔。
その、いつも、氷のように、冷たい、仮面。
その、仮面の、下の、彼女の、瞳から、一筋、光る、ものが、零れ落ちていくのを、私は、確かに、見た。
彼女は、泣いていた。
勝利した、彼女が、なぜ。
そして、聞こえた。
すぐ、近くで。
あまりにも、小さく、そして、か細く、そして、あまりにも、懐かしい、声が。
「………あおの、手は…」
(……あお…?)
(今、あなたは、私のことを、あお、って…)
「……温かい、ですね」
その、一言。
その、たった、一言で。
私の、心の中で、固く、そして、冷たく、凍りついていた、全ての、何かが、一瞬にして、溶け出していくのが、分かった。
ああ。
そうか。
あなたは、ずっと、そこに、いたんだね。
私の、知っている、しおりは、いなくなってなど、いなかったんだ。
ただ、深い深い、氷の、中で、一人で、ずっと、ずっと、泣いていたんだね。
私の、瞳から、再び、熱い、何かが、止めどなく、溢れ出してくる。
でも、それは、もう、試合に、負けた、悔しさや、悲しみの、涙じゃない。
ただ、ただ、愛おしくて、そして、嬉しい、涙だった。
私は、言葉を、返せない。
その代わりに、重ねられた、彼女の、その、震える、小さな、手に、私自身の、指を、そっと、絡ませた。
そして、その、手を、壊れ物を、扱うように、優しく、そして、強く、握り返した。
大丈夫だよ、しおり。
もう、あなたは、一人じゃない。
私が、いるから。
あなたの、その、冷たい、氷が、全部、溶けるまで。
私は、絶対に、この、手を、離さないから。
私たちは、言葉もなく、ただ、そうやって、手を、繋いだまま、しばらくの間、眼下で、繰り広げられる、他の、試合を、眺めていた。
その、私たちの、周りだけ、体育館の、喧騒が、嘘のように、遠くに、聞こえていた。
本日も異端の白球使いを、最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ブロック大会一回戦、しおりと、彼女の「過去」である、日向 葵との、戦いがついに決着を迎えました。
この二人の結末について、実は作者である私も、執筆中に、非常に悩みました。
例えば、しおりがもっと冷徹に、過去の全てを完全に切り捨てて、勝利するだけの「しおりルート」。
あるいは葵が、しおりの、そのあまりにも、分厚い氷の仮面の前に心が完全に折れて、途中で諦めてしまう、「葵ルート」も、考えていました。
最終的に、今回描かせていただいた、この結末を選択しました。
それが、この不器用で、そして痛々しいほど人間的な二人にとって、最も自然な着地点だと、感じたからです。
しおりは、過去を切り捨てるのではなく、その痛みを背負うことを、選びました。
そして、葵は、過去に固執するのではなく、現在のしおりを丸ごと受け入れる、という新しい強さを、手に入れました。
これは二人にとって、ハッピーエンドではないかもしれません。
ですが、確かに、未来へと、繋がる、一歩なのだと、私は、感じています。
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R・D