過去との対峙(9)
静寂 6 - 0 日向
もう、ダメだ。
私の、声は、届かない。
私の、想いも、届かない。
彼女の、その氷の仮面は、私が叩けば叩くほど、より硬く、そしてより冷たくなっていく。
(…そうか。もう、あの頃のあなたは、どこにもいないんだね)
私の、瞳から、熱い何かが、零れ落ちそうになる。
ラケットを、握る手が、震える。
私の、長くて、そして、苦しかった、戦いが、今、終わろうとしていた。
――本当に?
――本当に、それで、いいの?
私の心の奥底で、もう一人の、私が問いかける。
このまま、諦めていいのか、と。
私は、顔を上げた。
ネットの向こう側に立つ、しおりの、姿を見る。
その、氷のように冷たい、無表情。
勝利を目前にして、その瞳には、喜びも高揚も、何一つ浮かんでいない。
ただ、どこまでも静かで、そしてどこまでも孤独な瞳。
(…ああ、そうか)
その瞳を見た瞬間。
私は、全てを理解した。
(あなたは、勝っても、一人なんだ)
(あなたは、勝てば勝つほど、その冷たい孤独な世界に閉じこもっていくんだ)
(私がここで諦めてしまったら、あなたは本当に一人ぼっちになってしまう)
違う。
私が、すべきことは、諦めることじゃない。
彼女を、打ち負かし、仮面を剥がすことでもない。
(私が、すべきことは、ただ一つ)
(あなたが、どんなに私を拒絶しても)
(あなたが、どんなに冷たい壁を作っても)
(私はあなたのそばにいると。決していなくならない、と。それを、伝え続けることなんだ)
そうだ。
諦めなければ、どこかに、必ず、チャンスはある。
私の、この想いが、彼女のその凍てついた心に、届く、瞬間が。
私は、ラケットを、強く、握り直した。
その、瞳には、もはや、焦りも、絶望もない。
ただ、どこまでも深く、そして穏やかな愛情だけが、宿っていた。
サーブ権は、私。
私は、もう、彼女の、記憶を、揺さぶるような、サーブは、打たない。
ただ、静かに、そして、丁寧に、ボールを、相手コートに、送る。
…しおり
心の中で、彼女の、名前を、呼ぶ。
ラリーが、始まる。
彼女は、また、あの、いやらしい、ナックルカットや、ストップを、繰り出してくる。
私はそれに、必死に食らいつく。
ポイントを、取られても、いい。
試合に、負けても、いい。
でも、絶対に、心だけは、折れない。
私は、あなたを、諦めない。
一球、また、一球と、ボールを、打ち返すたびに、私は、彼女に、想いを、送り続ける。
(私は、ここにいるよ、しおり)
(あなたの、一番、近くに、いるよ)
私の、その、声にならない、声が、届いたのだろうか。
ラリーが、10本を、超えた、その時だった。
彼女の、その、氷のように、冷徹だった、瞳が、ほんの、わずかに、揺らいだのを、私は、見逃さなかった。
(…今だ…!)
その、一瞬の、心の、隙。
私は、そこへ、最後の想いを乗せて、渾身のドライブを、叩き込んだ。
ボールは、彼女の、ラケットを、弾き飛ばし、そして、コートに、突き刺さった。
静寂 6 - 1 日向
初めて、このセットで奪った、一点。
それは、勝利への一点ではない。
私の、想いが、彼女に、届いた、という、何よりも、確かな、証。
私は、汗を拭い、そして、次のサーブへと、入る。
そうだ。
私の、本当の「救済」は、ここから、始まるのだ。
諦めない。
絶対に。
あなたが、再び、笑ってくれる、その、日まで。