過去との対峙(8)
インターバル終了のブザーが、鳴り響く。
私は、ベンチから立ち上がり、コートへと向かった。
セットカウントは2-0。しおりの、リード。
もう、後がない。
でも、私の心は、まだ、折れてはいなかった。
第一セットのあの、デュースの攻防。
第二セットの、10-5からの、あの、一点。
私の「想い」は、確かに彼女の、あの分厚い氷の仮面に、ほんの少しだけ、亀裂を入れたはずだ。
(大丈夫。まだ、届く。まだ、間に合う)
(次のセット、もっと、強く、彼女の心の扉を、叩く。そうすれば、必ず…)
私は、ラケットを、強く、握り直した。
サーバーは、しおり。
彼女は、静かに、構える。
その、表情からは、もう第二セットの終盤に見せたような、あの僅かな「迷い」は、完全に消え去っていた。
そこにあるのは、ただ、勝利という、目的だけを見据える、絶対的な、そして冷徹な意志。
彼女が放ったのは、あの忌まわしいハイトスサーブ。
高いトスから繰り出される、予測不能な一球。
私は、全身の神経を集中させ、その、ボールの、軌道を、読む。
(…ナックル!短い!)
私は、前に、踏み込む!
だが、私のその完璧なはずの予測は、いとも簡単に、裏切られた。
ボールは、私の目の前で急激に失速し、そしてネットの白線をするりと越え、私のコートにぽとりと、落ちた。
静寂 1 - 0 日向
彼女の、二本目のサーブ。
再び、同じ、ハイトス。
(今度こそ…!)
私は、さらに、集中する。
だが、今度は強烈な下回転がかかったロングサーブ、私のバックサイド深くへ突き刺さる。
私の、レシーブは、大きく台をオーバーした。
静寂 2 - 0 日向
(…なぜ…?なぜ、私の、声は、もう、あなたに届かないの…?)
サーブ権が、私に移る。
私は、自分の得意な、ロングサーブを叩き込む。
ラリーになれば。打ち合いになれば、きっと、また隙が生まれるはずだ。
だが、彼女は、もう私と打ち合ってはくれなかった。
私のサーブを、彼女はカットで、いなしてくる。
台から下がり、あの黒い、アンチラバーで、私のドライブの威力を殺す。
そして赤い裏ソフトで、強烈な、下回転をかけてくる。
私の、全ての「想い」が乗ったボールは、彼女のその幻惑の壁に吸収され、そして無に還されていく。
私は、その変化の迷路の中で、ただ翻弄され、そして、ミスを重ねていった。
静寂 3 - 0 日向
静寂 4 - 0 日向
違う。
こんな、卓球が、したいんじゃない。
私は、あなたと、対話が、したいだけなのに。
「…しおりぃっ!」
私は、ほとんど、無意識のうちに、彼女の、名前を、叫んでいた。
そして、次のラリーで、私は全ての戦術を捨てた。
ただがむしゃらに、彼女の胸元をめがけて、渾身のスマッシュを叩き込んだ。
だが、彼女は、その私の魂の一撃すらも、予測していたかのように、冷静に、そして完璧なブロックで、私のいないオープンスペースへと、静かに流し込んだ。
静寂 5 - 0 日向
静寂 6 - 0 日向
もう、ダメだ。
私の、声は、届かない。
私の、想いも、届かない。
彼女の、その、氷の仮面は、私が、叩けば、叩くほど、より、硬く、そして、より、冷たく、なっていく。
(…そうか。もう、あの頃の、あなたは、どこにも、いないんだね)
私の、瞳から、熱い、何かが、零れ落ちそうになる。
ラケットを、握る、手が、震える。
私の、長くて、そして、苦しかった、戦いが、今、終わろうとしていた。