交わる過去
体育館の、喧騒。様々な学校の、ジャージの色。そして、これから始まる戦いを前にした、独特の、熱気。
そんなものは、今の、私の目には、ほとんど、映っていなかった。
私は、ただ、一人を、見つめている。
「いいか、葵。一回戦の相手は、第五中学の、静寂しおり。県大会の、チャンピオンだ。データは少ないが、聞くところによると、アンチラバーを使った、変則的なプレースタイルらしい。相手のペースに、決して、乗るなよ。」
隣で、顧問の先生が、心配そうに、私に、そう、声をかけてくる。
私は、生返事を、した。
(…知っています。そんなこと、とっくの昔に)
県大会で、彼女が、優勝したという、噂は、私の耳にも、届いていた。
「予測不能の魔女」
そんな、馬鹿げた、二つ名で、呼ばれていることも。
(違う。彼女は、魔女なんかじゃない)
私は、彼女の、全ての試合の、映像を、手に入れた。一球、一球、その、全ての動きを、私の目に、そして、心に、焼き付けた。
黒いアンチラバーと、赤い裏ソフト。それを、瞬時に持ち替える、あの、器用な指先。
相手の力を、利用し、無へと還す、あの、冷徹なブロック。
そして、相手の心が、折れた、その瞬間にだけ、放たれる、容赦のない、スマッシュ。
(…ああ、しおり。あなたは、今も、そうやって、戦っているんだね)
そうやって、勝利を、重ねることで、自分は、ここにいていいのだと、必死に、自分に、言い聞かせている。
あなたが、勝つことで、自己を、正当化していることなんて、私には、痛いほど、分かる。
なんて、馬鹿で、そして、なんて、可哀想な、私の、しおり。
Cコートの方へと、歩いてくる、二つの、人影。
そのうちの一人。他の選手たちよりも、頭一つ分、小さな、その姿。
間違いない。
しおりだ。
感情というものが、完全に、抜け落ちたかのような、氷の、仮面。
私の、胸が、締め付けられるように、痛む。
そして、その、痛みが、どうしようもないほどの、愛情と、そして、激しい、怒りへと、変わっていく。
(大丈夫だよ、しおり)
私は、心の中で、彼女に、語りかける。
(そんな事をしなくても、あなたが、ここにいていいんだって、私が、認めてあげる。 世界中の、誰もが、あなたを、否定しても、私だけは、あなたの、絶対的な、味方でいてあげる)
(だから、まずは、あなたの、その、拠り所となっている、くだらない「勝利」という名の、幻想を、私が、全て、壊してあげる)
私のその、歪んだ、救済に気づいた者は、誰もいない。
彼女が、ネットを挟んで、私の反対側に、立った。
時間と空間を飛び越えて、私たちの、視線だけが、確かに、交わった。
そうだ。
この試合は、あなたにとっては、向き合うべき、辛い「過去」なのかもしれない。
でも、私にとっては、違う。
これは、私の、全てを懸けた、過去を、そして、愛する人を、取り戻すための、戦いなのだ。
審判の、試合開始を、促す声が、聞こえる。
私の、本当の、戦いが、今、始まる。