過去との対峙
開会式が終わり、体育館は、再び、試合前の、独特の熱気と、喧騒に包まれた。
部長とあかねさんが、Aコートへと向かっていく。その背中に、私は、静かに、一礼した。
そして、私は、未来さんと、二人で、Cコートへと、歩き始める。
周りの、喧騒が、遠い。私の、研ぎ澄まされたはずの、聴覚センサーは、今、自分の、早鐘を打つ、心臓の音しか、拾うことができないでいた。
(変数、『日向 葵』これは、エラーではない。これは、私が、ずっと、目を逸らし続けてきた、過去の、データ。私が、削除したと、思い込んでいただけの、記録)
私のシステムは、今、過去、経験したことのない、重く、そして、確かな、負荷に、晒されていた。
論理が、機能しない。
最適解が、見つからない。
Cコートに着くと、ネットの向こう側には、既に、彼女が、いた。
北園中学の、ジャージに、身を包んだ、日向 葵。
彼女は、ウォーミングアップの手を止め、その、強い、強い、瞳で、私だけを、じっと、見つめている。
その瞳には、私が、知っている、昔の、彼女の、面影は、どこにもない。そこにあるのは、私への、あまりにも、深く、そして、複雑な、感情の、奔流。
「…しおりさん」
隣に立つ、未来さんが、私の、その、内なる、混乱を、見透かしたかのように、静かに、しかし、きっぱりとした、口調で、言った。
「あなたの思考が、正常ではないように、お見受けします。原因は、対戦相手の日向選手ですね。」
彼女は、続けた。
「…もし、今のあなたに、論理的な『解』が見いだせないのであれば、一つ、提案があります。」
「今日の試合、思考を、放棄してください。ただ、あなたの『感覚』だけを信じて…」
彼女の、その私を、気遣う言葉。
以前の私なら、あるいは、その非合理的な提案に、乗っていたのかもしれない。
思考を放棄する。感覚だけで戦う。それは、この苦しい状況から、逃げるための、一つの、楽な道だ。
だが。
私は、ゆっくりと、首を横に振った。
「…いいえ、未来さん。その提案は、却下します」
私のその、静かだが揺るぎない拒絶の言葉に、未来さんが、少しだけ驚いたように目を見開く。
私は、ネットの向こう側で私を見つめ続ける、あおいの、その、痛々しいほどの、視線から、目を逸らさなかった。
「この戦いは、ただの、一回戦ではありません」
私の声は、震えていない。そこには、今まで、私自身も、知らなかった、新しい覚悟の色が、宿っていた。
「これは…私が、過去に、捨ててきたもの…私が、逃げ続けてきた、私自身の『罪』と、向き合うための、戦いです。」
そうだ。
私は、逃げてきた。
あの日、心が壊れてから、ずっと。
感情を捨てた。人間関係を切り捨てた。そして、あおいの、あの温かい手を、私は、自ら振り払ったのだ。
全て、自分を守るために。
「だから、手放すことは出来ません。思考も、感情も、何も、放棄しない。」
私は、自分の胸に、そっと手を当てた。
そこには、確かに、恐怖がある。後悔がある。そして、彼女に対する、申し訳なさ、という、解析不能な、痛みがある。
「全てを、受け入れた上で、私は、彼女に向き合って、そして、勝ちます。」
「それが、今の、私が出すべき、唯一の『解』です」
私の、その宣言。
それを聞いた、未来さんは、一瞬、息をのんだ。
そして、次の瞬間、彼女の、その、深淵のような、瞳の奥に、深い深い、そして温かい尊敬の光が、灯った。
彼女は、ただ、静かに、そして力強く、頷いた。
「…承知しました。あなたの『解』しかと、この目で見届けさせていただきます。サポーターとして、全力で、あなたをサポートします」
私は、彼女に、一度だけ、頷き返すと、コートの中央へと、足を踏み出した。
日向 葵が、待っている。
私の、過去、そのものが、待っている。
いいだろう。
見せてあげる。
これが、今の、私の、全てだ。