特別練習・最終日 しおり編
高坂さんとの、あの、高度な情報戦とも言える練習が終わり、私たちは、軽く息を整えていた。
未来さんとあかねさんが、私たちに、ドリンクとタオルを渡してくれる。
「二人とも、すごかったです…!まるで、違う次元の卓球を見ているようでした…!」
未来さんが、その瞳を、興奮に、きらきらと輝かせながら、そう言った。彼女にとっては、最高の「研究データ」が、収集できたのだろう。
その時だった。
体育館の、もう一つのコートから、それまで響き渡っていた、爆発するような打球音が、ぴたりと、止んだのは。
私たちは、一斉に、そちらへと、視線を向ける。
そこには、ネットを挟んで、二人分の、大きな影が、体育館の床に倒れていた。
いや、「果てていた」という表現の方が、より、的確かもしれない。
ラケットは、手から滑り落ち、二人は、大の字になって、天井を、見上げている。
その姿は、まるで、全ての力を出し尽くした、ものの姿。
あかねさんが、心配そうに、声を上げる。
「部長先輩!後藤先輩!大丈夫ですか!?」
私は、その、あまりにも、非効率的な、光景に、ふぅ、と、自分でも気づかないうちに、深いため息をついていた。
そして、その、転がっている、二つのオブジェクトの元へと、ゆっくりと、歩み寄った。
「……また、ですか。…なにやってんですか部長。」
私の、その、平坦で、しかし、心の底からの呆れを含んだ声に、部長が、うめき声のようなもので、応えた。
「…うっせえ…しおり…。これは、だな…男の、戦い、なんだよ…」
「そうそう。お前には、まだ、分かんねえだろうな…」
床に伸びたままの後藤選手も、それに、同調する。
私は、その、子供じみた言い訳に、さらに、冷たい、事実という名の、ナイフを突きつけた。
「目的も、スコアも、忘れ去られた、ただの、感情的なエネルギーの放出。私の分析では、これは『練習』ではなく、『喧嘩』に分類されますが」
「ぐっ…!」
部長と、後藤選手が、同時に、言葉に詰まる。
その様子を見ていた高坂選手と、未来さんが、くすくすと、笑いをこらえているのが、視界の端に映った。
(全く、非合理的だ…)
私は、そう、結論付けた。
勝利という、明確な目的を忘れ、ただ、感情のままに、エネルギーを、浪費する。
そんなものに、何の意味があるというのか。
だが。
その、私の、完璧なはずの、ロジックに、一つの、解析不能なデータが、ノイズとして、混入してきた。
(…なぜだ…?)
床に伸びている、この二人の表情。
それは、敗北者の、それではない。悔しさも、苦しさも、そこにはない。
むしろ、その表情は、どこか、満足げで、そして、長い、長い、苦しみから、解放されたかのような、安堵の色さえ、浮かんでいる。
(理解できない。この、何の成果も、データも、生み出さなかったであろう、非効率的な行為の、どこに、『満足』というパラメータが発生する要因がある?この、二人の間に流れる、穏やかな空気は、一体、何だ…?)
私の思考ルーチンが、初めて、答えの出ない、問いに、直面する。
論理では、説明がつかない。
データでは、解析できない。
だが、そこには、確かに、何かが、存在している。
(…これが、部長の言う『掛け算』…?いや、違う…)
(…あるいは、これは、彼らにとっての、彼らだけの、『最適解』だった、とでも、言うのだろうか…)
分からない。
でも、なんとなく。
ほんの、少しだけ。
分かるような、気もした。
私は、もう一度、深く、ため息をつくと、しゃがみ込み、二人の、すぐ横の床に、ドリンクボトルを、二本、置いた。
そして、一言だけ、呟いた。
「…早く、水分補給をしてください。非効率的ですが、脱水症状で倒れられる方が、チーム全体の、パフォーマンスを低下させますので」
私のその言葉に、部長と、後藤選手は、一瞬、きょとんとした顔で、私を見つめ、そして、二人して、子供のように、にっと、笑ったのだった。