実験台
梅雨明けを思わせる強い日差しが、体育館の窓から差し込み、床に反射して白く光っている。
蒸し暑さがまとわりつくような空気の中、卓球部の練習はいつも以上の熱気を帯びていた。
県大会まで、あと一週間。部員たちの表情には、期待と緊張、そして夏の大会特有の高揚感が滲んでいる。
「ラスト一本!集中していけよ!」
部長の檄が、体育館に響き渡る。彼のシャツはすでに汗でぐっしょりと濡れ、額からは絶えず汗が滴り落ちているが、その声の力強さは少しも衰えていない。
彼は、部員たちを鼓舞し、自らもまた、誰よりも激しく体を動かしていた。
私は、その喧騒の中心から少し離れた場所で、黙々と多球練習に取り組んでいた。
マシンから放たれる、様々な回転とコースのボール。それに対し、私はスーパーアンチと裏ソフトを瞬時に持ち替え、正確に、そして低く、相手コートにコントロールする練習を繰り返す。
汗が顎を伝い、床に落ちる。
呼吸は速いが、乱れてはいない。私の意識は、ボールの回転、ラケットの角度、そして体の軸の動き、その一点に集中している。
私の隣では、あかねさんが、ボールの補充をしながらも、時折私の練習風景を真剣な眼差しで見つめている。
彼女のノートには、私が繰り出す打球の軌道や、持ち替えのタイミングなどが、彼女なりの言葉で記録されているのだろう。
「…ふう。静寂、お前のそのマシン練習、相変わらず気合入ってんな。」
いつの間にか、部長が私の背後に立っていた。タオルで顔の汗を拭いながら、その大きな瞳は私の手元、そして私が設定を調整していたマシンに向けられている。
「今日の練習はこれで終わりだ。各自ストレッチして、後片付け!」
部長が体育館全体に響き渡る声で号令をかけると、他の部員たちは「はい!」と返事をし、練習を終える準備を始めた。
私も、ラケットをケースにしまおうとした、その時だった。
「なあ、静寂。」
部長が、普段よりも少しだけ抑えた、しかし真剣なトーンで私に話しかけてきた。
「この前の試合…いや、あの打ち合い、すごかったよな。お前のあの、見たこともねえようなボール…特にデュースの最後の方で出してたやつ。あれ、まだ完成してねえ『新しい技』なんだろ?」
彼の視線は真っ直ぐで、私の分析を求めるような、あるいは純粋な好奇心に満ちている。
…昨日の試合で試した技の数々、そして最後のスーパーアンチからの攻撃的な変化ブロック。
確かに、あれらはまだ成功率にムラがあり、実戦投入にはリスクが伴う。
「…はい。まだ、調整段階です。」
私は、事実を簡潔に伝える。
「だろうな!だがよ、静寂。あんな面白いもん、調整段階で終わらせるわけにはいかねえだろ!」
部長は、ニカッと歯を見せて笑った。
その笑顔は、まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようだ。
「どうだ?もしお前が良けりゃ、俺がその『新しい技』の実験台になってやるぜ!マシン相手じゃ、人間の予測不能な反応や、ギリギリの駆け引きは試せねえだろ?俺なら、お前のその『変態的』なボール、何本でも受けてやるし、どういう時に通用して、どういう時に通用しねえか、体で教えてやれるかもしれん!」
彼の提案は、あまりにも予想外だった。
この、誰よりも正統派で、パワーと情熱で押してくる男が、私の「異端」で、しかも未完成な技の「実験台」に、自らなろうというのか。
…彼の目的は? 私の技術データの収集か? それとも、単なる好奇心、あるいは私をさらに鍛えようというお節介か? 自身の練習もあるだろうに
私の思考が高速で損得勘定を弾き出す。リスクは、技の未熟さ故の失敗と、それによる彼の苛立ち、あるいは私の手の内を彼に晒すこと。
リターンは、実戦に近い状況での技の有効性の検証と、改善点の発見。
「…部長先輩、それ、本気ですか? しおりさんの新しい技って、本当に何が飛んでくるか分からないんですよ? 昨日だって、部長先輩、何度も見たことない顔してましたし…」
心配そうに、しかしどこかワクワクした様子で割って入ってきたのは、あかねさんだった。彼女は、私たちの会話を興味津々で聞いていたようだ。
「ったりめえよ、あかねちゃん!本気に決まってんだろ!静寂のあの卓球は、俺にとっても未知との遭遇だ!それを体感できるってんなら、こんな面白いことはねえ!」
…部長相手に戦術を晒すというリスクはそんな考えなくてよさそうだ、彼は純粋に、知りたい、楽しみたいだけなのだろう。
「…分かりました。」
私は、静かに、しかし明確な意思を持って答えた。
「実験台、お願いします。ただし、私の技はまだ不安定です。ご期待に沿える結果が出るとは限りません。」
私のその言葉に、部長は「よっしゃあ!」と、今日一番の大きな声を上げ、拳を空に突き上げた。
その姿は、まるで大きな大会で優勝でもしたかのようだ。
「心配すんな、静寂!俺の体は頑丈だからな!どんなボールだろうと、全部受け止めてやる!さあ、とっとと準備しろ!早くお前の『秘密兵器』とやらを見せてくれ!」
彼は、すでに卓球台の前に立ち、逸る心を抑えきれないといった様子で、私にラケットを構えるよう促している。
あかねさんは、そんな私たちを見て、嬉しそうに、そして少しだけハラハラしたような表情で、ノートを再び開いた。
体育館には、もう私たち三人しか残っていない。
窓から差し込む西日が、卓球台と、これから始まるであろう奇妙な練習風景を、オレンジ色に染め上げていた。
私の「異端」の、そして未完成の技。
それを受け止めようとする、熱血漢の「部長」。
そして、その全てを目撃しようとする、好奇心旺盛なマネージャー。
この特異なトライアングルが、これからどのような化学反応を起こすのか。私の分析は、まだその答えを導き出せずにいた。




