特別練習・最終日 風花編
保健室の、白い天井。消毒液の、ツンとした匂い。
それが、今の、私の世界の、全てだった。
あの日以来、私は、教室へは行けず、この、静かすぎる「聖域」で、ただ、息を潜めるように、時間をやり過ごしている。
第五中学に、まだ、私の籍がある、という、ただ、それだけの事実が、私を、かろうじて、この世界に繋ぎ止めていた。
その、静寂を、破ったのは、同じクラスの、女子生徒たちの、賑やかな声だった。
「聞いた?なんか、体育館に、すっごいイケメンの、他校の卓球部のキャプテンが来てるんだって!」
「え、ほんと!?どこの学校!?」
私の、止まっていたはずの、心臓が、どくん、と、大きく、音を立てた。
(…他校の、キャプテン…?背が高くて、かっこいい…?)
その、断片的な情報だけで、私の思考は、たった一人の、人物の顔を、思い浮かべていた。
(まさか…。後藤くんが…?どうして、この学校に…?)
私の、心の奥底で、罪悪感という名の、黒い染みが、じわりと、広がっていく。
(猛くんに、会いに来たの…?それとも…私の、様子を…?)
(私のせいだ。私が、あんなことになったから、三人の、私たちの、時間は、めちゃくちゃになってしまった。猛くんと、後藤くんの関係が、ギクシャクしているのも、全部、全部、私のせいなんだ…)
いてもたってもいられなくなった。
私は、保健室の先生に、一言だけ断ると、まるで、何かに、引き寄せられるように、体育館へと、足を向けた。
体育館の、大きな扉。その、隙間から、中を、覗くように、伺う。
熱気と、ボールの音。そして、私の、よく知っている、二つの、人影。
猛くんと、後藤くん。
二人が、ネットを挟んで、向き合っている。
そして、次の瞬間、凄まじい、ラリーが始まった。
それは、ただの、打ち合いではなかった。
私には、分かった。
あの、一球、一球に、二人の、言葉にならない、たくさんの想いが、込められているのが。
猛くんの、全てをなぎ倒すかのような、ドライブ。
それは、「なぜ、いなくなったんだ」という、怒りの声。
後藤くんの、その威力を、さらに、鋭い回転でねじ伏せる、カウンター。
それは、「お前に、何が分かる」という、悲しみの声。
怒りと、悲しみ。後悔と、やるせなさ。
二人の、ぐちゃぐちゃになった感情が、白いボールを通して、激しく、激しく、ぶつかり合っている。
そして、その、全ての感情の、起点にいるのは、紛れもなく、私なのだ。
(やめて…)
胸が、張り裂けそうだった。
(私のせいで、二人を、これ以上、苦しませないで…)
ラリーが、終わる。
二人が、膝に手をつき、肩で、大きく息をしている。
そして、聞こえてきた。猛くんの、掠れた声が。
「……やっぱ、つええな、お前…」
そして、後藤くんの、静かな、返事が。
「……お前もな、猛。」
その、たった、一言ずつの、やり取り。
でも、その言葉の中に、二人の、長い、長い、空白の時間が、少しだけ、溶けていくのが、分かった。
その時、私は、気づいてしまったのかもしれない。
私は、ずっと、間違っていたのかもしれない、と。
私は、あの日以来、自分のことを、ただ、傷つき、輝きを失い、そして、ゆっくりと、風化していく、ただの石ころだと思っていた。そして、その、砕けた破片が、大切な二人を、傷つけているのだと、そう、思い込んでいた。
でも、違った。
彼らは、傷つきながらも、苦しみながらも、決して、私のことを、諦めてはいなかった。
彼らの、あの、壮絶な打ち合いは、私という存在を、否定するためのものではない。
むしろ、私という、共通の「痛み」を、乗り越えるために、必死に、もがいていたのだ。
彼らは、私が、どんなに、ボロボロになっても、ずっと、私のことを、見捨ててはいなかった。
――絶対的な、味方が、私には、いたんだ。
その、あまりにも、当たり前で、そして、あまりにも、尊い事実に、私は、今更ながら、気づいたのだ。
私は、誰にも見つからないように、そっと、その場を、離れた。
そして、自分の、道へと、歩き出す。
(…私、このままじゃ、ダメだ)
心の中で、小さな、しかし、確かな声がした。
(あの二人に、顔向け、できない)
風化した石も、もし、時間をかけて、丁寧に、丁寧に、研磨すれば。
もう一度、昔のような、輝きを、取り戻せる日が、来るのだろうか。
その答えは、まだ、分からない。
でも、私は、今日、確かに、確信した。
私の、止まっていた時間は、もう、終わり。
ここから、もう一度、始めなければならないのだと。
二人の、あの、不器用で、そして、誰よりも優しい、私の、絶対的な味方のために。