特別練習・最終日 後藤の内心
特別練習の、三日目の朝。
体育館の扉を開けると、そこには、もう、初日のような、あの、息が詰まるほどの、気まずい空気は、存在しなかった。
代わりに、高いレベルの選手たちの心地の良い、そして、どこか、ピリリとした緊張感が、その場を支配している。
しおりさんと未来さんは、既に、軽いラリーを始めている。その、異質と異端が交錯する、静かで、しかし、濃密なボールの応酬は、もはや、この体育館の、日常の風景となりつつあった。
高坂さんは、入念なストレッチをしながら、その二人を、楽しそうに、そして、どこか、ライバルの目で、観察している。
俺は、そんな光景を、壁に寄りかかりながら、ぼんやりと眺めていた。
(…三日目。あっという間、だったな…)
この体育館に来るまでは、正直、怖かった。
逃げ出した、この場所に、もう一度、足を踏み入れることが。
猛の顔を、真っ直ぐに、見ることが。
そして、何よりも、あいつが、もし、今も、昔と同じように、苦しんでいたら、と。
だが、この二日間で、俺が見たのは、俺の、知らない景色だった。
しおりという、常識を、根底から、覆すような、面白い後輩。
未来さんや、高坂さんという、全国レベルの、好敵手たち。
あかねさんという、太陽のような、マネージャー。
そんな、新しい仲間に囲まれて、あいつは、確かに、主将として、前を、向いていた。
俺が逃げていた、この数年。
あいつは、一人で、ちゃんと、自分のチームを、作っていたんだ。
その事実に、安堵する気持ちと、ほんの少しの、置いていかれたような、寂しい気持ちが、胸の中で、混ざり合う。
俺は、無意識のうちに、呟いていた。
ほとんど、自分にしか、聞こえないような、小さな声で。
「……今日で、最後、か。」
「――ああ。そうだな。」
すぐ、隣から、返事があった。
振り返ると、そこには、ラケットのグリップテープを、巻き直しながら、猛が、立っていた。いつから、そこにいたんだろうか。
あいつは、俺の顔を見ずに、ただ、手元に集中しながら、ぽつりと、続けた。
「…あっという間、だったな。」
その、静かな、しかし、俺と、全く同じ想いが込められた、言葉。
俺たちの間に、また、あの、少しだけ、気まずい、しかし、決して、嫌ではない、沈黙が、流れる。
その、沈黙を、破ったのは、高坂選手の、快活な声だった。
「ちょっと、二人とも!しんみりするのは、全部終わってからにしなさい!」
彼女は、ストレッチを終え、こちらに、にっと、挑戦的な笑みを向けていた。
「さあ、練習、練習!最終日なんだから、悔いのないようにしないとね!猛くん、五郎くん!」
「…後藤だ」
俺が、静かに、訂正する。
「はっはっは!お前間違えられてるぞ!さあ、存在感を示すぞ!後藤!」
猛が、豪快に笑い、俺の背中を、強く、叩いた。
その、手のひらの、熱さ。
昔と、何も、変わらない。
俺は、小さく、息を吐き、そして、頷いた。
そうだ。感傷に浸っている、暇はない。
この、特別な、三日間の、最後の、一日。
俺もまた、悔いを残さないように、全力で、この、最高の仲間たちと、ボールを、打ち合おう。
そう、心に、決めた。