特別練習・開幕(4)
私と高坂選手の、あの、壮絶なオールコートのラリー練習が終わった後、体育館には、再び、静かだが、しかし、より密度の濃い緊張感が漂い始めていた。高坂選手は、息を整えながらも、その瞳には、私の次の「一手」を探るような、強い警戒の色が浮かんでいる。
私は、彼女に向かって、静かに告げた。
「高坂さん。サーブの検証は、一旦終了します。次は、レシーブからの展開…私の『マルチプル・ストップ』のデータを収集したい。あなたの、前陣での対応力を見せてください」
「マルチプル…ストップ…?」
彼女が、訝しげに、その聞き慣れない言葉を繰り返す。
「ええ。始めましょうか」
私は、それ以上は説明せず、レシーバーとして、台についた。
高坂選手は、何かを察したように、表情を引き締め、そして、短い、下回転のサーブを、私のフォア前へと送ってきた。
私は、そのサーブに対し、ラケットを赤い裏ソフトの面に向け、全く同じ、下回転のツッツキで、短く、相手コートに返球する。
ごく普通の、前陣での、ツッツキの応酬。
タン、タン、タン…。
数回、ラリーが続いた後、高坂選手のツッツキが、ほんのわずかに、深く入った。
その、瞬間だった。
私のラケットが、相手には認識できないほどの速さで、掌の中で、くるりと半回転した。
そして、私は、先ほどまでと全く同じ、ツッツキのモーションで、ボールを捉える。だが、ボールに触れたのは、黒いアンチラバーの面。
「カツンッ」という、乾いた音。
ボールは、それまでの下回転の応酬が嘘のように、全ての回転を失い、そして、ネットの白線の上を、舐めるように、するりと越え、相手コートに、ぽとりと落ちた。
デッドストップだ。
「くっ…!」
高坂選手は、次の下回転を予測していたのだろう。彼女のラケットは、ボールの下を、虚しく、空を切った。
「今の…持ち替えたの…!?」
彼女が、驚愕の声を上げる。
私は、答えない。ただ、無表情に、次のラリーを待つだけだ。
再び、高坂選手のサーブ。
今度も、短いラリーの応酬。そして、私が、再び、同じモーションで、ボールを捉える。
高坂選手は、今度は、ナックルを警戒し、ラケットの面を、少しだけ、立てて待っている。
だが、私が、今度は、赤い裏ソフトの面で、ボールの、真横を、鋭く捉えた。
横回転ストップ。ボールは、彼女の予測とは全く違う、真横の方向へと、鋭く、曲がっていった。
「なっ…!?」
彼女のラケットは、またしても、空を切る。
「下回転、ナックル、そして、今度は、横回転…!?同じ、構えから、全部…!?」
彼女の、その冷静な思考が、明らかに、混乱をきたし始めているのが、見て取れた。
そして、私は、その、思考の迷路に迷い込んだ彼女に、とどめを刺す。
再び、短いラリー。
私が、また、あの、モーションに入る。
高坂選手の思考が、高速で回転する。「次は、なんだ?下か?ナックルか?横か?あるいは、ロングプッシュか…!?」
彼女が、その、コンマ数秒の判断に、迷った、その瞬間。
私は、ストップの構えから、一転、ラケットを裏ソフトの面に切り替え、手首のスナップを効かせ、そのボールを、彼女の、がら空きになった、フォアサイドへと、攻撃的なフリックで、弾き飛ばした。
白いボールが、閃光のように、彼女の横を駆け抜けていく。
彼女は、もう、そのボールに、反応すら、できなかった。
体育館の隅で、その光景を見ていた未来さんが、静かに、そして、どこか、恍惚とした表情で、呟いた。
「…すごい。台の上という、僅か数メートルの空間を、完全に支配している。同じモーションから、回転、無回転、コース、長短、緩急…全ての変数を、彼女一人がコントロールしている。高坂さんの思考が、完全に、飽和状態に陥っている…。これが、彼女の『支配の卓球』の、本質…」
高坂選手は、膝に手をつき、肩で、大きく息をしていた。その顔には、悔しさよりも、もっと、根源的な、理解不能なものに直面したかのような、畏怖の色が浮かんでいる。