特別練習・止まった時間(2)
「さて、と。じゃあ、今度は、君たちの番だ、猛くん、後藤くん!」
佐藤先生の、その、いつもと変わらない明るい声が、体育館の張り詰めた空気を、ほんの少しだけ、揺さぶった。
俺は、後藤の顔を見た。
あいつも、俺を見ていた。
俺たちの、止まっていた時間が、今、ようやく、動き出そうとしている。
俺は、ラケットを強く、握りしめた。
言うべき言葉は、まだ、見つからない。
だから、今は、ただ、全力で、この白いボールに、俺の、全ての想いを、叩きつけるだけだ。
卓球台を挟んで、向き合う。
その距離は、たったの2.74メートル。なのに、俺とこいつの間には、何年分もの、そして、あまりにも重い、見えない壁があった。
「…一本、勝負といくか」
俺が、そう言うと、後藤は、無言で、こくりと、頷いた。
俺のサーブから、試合形式のラリーが始まる。
先ほどの、感情をむき出しにした、あの壮絶な打ち合いとは、違う。
お互いに、より、冷静で、そして、より、戦術的だ。
(…こいつのレシーブ、前より、ずっと、鋭くなってる…)
俺の下回転サーブに対し、後藤は、寸分の狂いもないツッツキで、厳しいコースを突いてくる。俺が、それをドライブで持ち上げれば、彼は、少しも体勢を崩さず、安定したブロックで、俺を左右に揺さぶってくる。
ミスがない。スマートで、そして、粘り強い。
そうだ。これこそが、俺の知っている、後藤護の卓球だ。
城南中学で、こいつは、主将として、一体、どれほどの練習を、積んできたんだろうか。
俺が、この場所で、風花への罪悪感に、立ち止まっていた、あの時間も。
「ちっ…!」
俺のドライブが、後藤の、完璧なブロックに阻まれ、ネットにかかる。
「…ナイスブロック」
俺が、思わず、そう呟くと、後藤は、何も言わずに、ただ、次のサーブを、待っている。
その、壁のような、無表情。
だが、それでいい。
この、三日間の練習は、始まったばかりだ。
俺たちが、失った時間を取り戻すには、言葉は、まだ、早すぎる。
今は、ただ、こうやって、ボールを打ち合うこと。それが、今の俺たちにできる、唯一の「対話」なのだから。
俺は、ボールを拾い上げ、再び、構える。
その様子を、体育館の隅で、しおりや、未来や、高坂たちが、息をのんで、見守っているのが、視界の端に映った。
(見てろよ、しおり。お前が、俺たちに見せてくれた、お前の『異端』の卓球。その、お返しじゃねえが、今度は、俺たちの、この、不器用な『王道』の卓球を、見せてやる)
俺たちの、この、長くて、そして、痛みを伴う「対話」は、まだ、始まったばかりだ。
この、三日間の中で、俺たちの、この、錆びついた関係が、少しでも、変わることを、願いながら。
俺は、次のサーブを、後藤の、胸元めがけて、叩き込んだ。
俺にとって、きっと後藤にとっても、これはただの練習ではない。初球から、お互いに、一切の遠慮も、手加減もない。
全力の、ドライブの応酬。
「パァンッ!!」
俺の、全身のバネを使った、全てをなぎ倒すかのような、ドライブが、後藤のコートへと突き刺さる。
「バァンッッ!!!」
後藤が、その威力を、さらに鋭い回転でねじ伏せる、カウンタードライブで、応戦してくる。
その、しなやかな体幹を使った、効率的で、そして、スマートなフォーム。腹が立つほど、昔と、何も変わっていねえ。
そこからは、もう、記憶が曖昧だ。
ただ、ひたすら、ボールを打ち合った。
フォアへ、バックへ、ミドルへ。台の、全ての領域を使って、互いの、体と、そして、心を、削り合うような、壮絶なラリー。
体育館の床を焦がす、シューズの摩擦音。俺とあいつの、荒い呼吸。そして、ボールが、爆発するような、甲高い打球音。
それ以外の音は、もう、何も聞こえなかった。
一球、打つたびに、過去の記憶が、蘇っては、消えていく。
(…ちくしょう、そのコース、昔から、俺の苦手なとこじゃねえか…!)
(…分かってんだよ、お前の狙いなんて、全部な…!)
それは、言葉にならない、俺たちの対話。
お互いの、怒り、悲しみ、後悔、そして、ほんの少しの、あの頃への懐かしさ。その、ぐちゃぐちゃになった、全ての感情を、この、たった一つの、白いボールに、叩きつけているようだった。
汗が、目に入る。肺が、焼き切れそうだ。腕も、足も、鉛のように、重い。
だが、俺は、足を止めない。あいつも、止めない。
ここで、先に、膝をついた方が、負けだ。
そんな、ガキの頃みてえな、意地の張り合い。
ラリーが、何本、続いただろうか。
もはや、どちらが、優勢なのかも分からない。
ただ、お互いに、倒れる寸前まで、ボールを、打ち合い続ける。
そして、ついに、その瞬間が、訪れた。
俺が、最後の力を振り絞って放った、渾身のフォアハンドドライブ。
後藤もまた、それに、全力のカウンターで、応戦する。
二つの、最強の「矛」が、激しく、衝突した。
白いボールは、凄まじい音を立てて、ネットの、白い部分に当たり、そして、どちらのコートに落ちるでもなく、力なく、床へと、ぽとりと転がっていった。
長い、長い、静寂。
聞こえるのは、俺と、あいつの、肩で、大きく息をする、荒い、荒い、呼吸音だけ。
俺は、汗で、ぐっしょりと濡れた顔を上げた。
ネットの向こう側で、後藤もまた、膝に手をつき、肩で、大きく息をしていた。
俺は、絞り出すように、言った。
「……はあっ…はあっ…。…やっぱ、つええな、お前…」
後藤は、ゆっくりと、顔を上げた。
そして、初めて、その視線で、俺の顔を、真っ直ぐに、捉えた。
その口元に、ほんのわずかに、あの頃のような、懐かしい、そして、悲しい、笑みが浮かんでいた。
「……お前もな、猛。」
その、一言。
たった、一言で、俺たちの間に、長く、そして、固く凍りついていた、時間が、ほんの少しだけ、溶け出したような気がした。
この、三日間の練習は、まだ、始まったばかりだ。
俺たちの、本当の「対話」もまた、ここから、始まるのかもしれない。