論理と実戦
私の世界から、余計なノイズが消え去り、思考はクリアに澄み渡る。
手には、私の意思を体現するためのラケット。
そして、不可視の軌道を描き、私に挑戦し続ける白い球体。それだけが、私の世界の全てだった。
私はまず、卓球台の片側に立ち、壁際に設置された高性能なボールマシンを起動させた。
プログラムされたコースと回転。初めは、単調なリズムで放たれる下回転のボールに対し、スーパーアンチラバーで正確に、そして低く、ネット際に止める「デッドストップ」の練習を繰り返す。
ボールがラケットに当たる、カツン、という乾いた音。ネットをすり抜け、相手コートに吸い込まれるように落ちるボールの軌道。
その全てを、ミリ単位で調整していく。
次に、マシンの設定を変え、左右に振られるトップスピンのボールに対し、裏ソフトとスーパーアンチを瞬時に持ち替えながらブロックする練習。
フォア側に来たボールは裏ソフトで鋭角に、バック側に来たボールはスーパーアンチで回転を殺し、相手の意表を突くコースへ。
私の体は、まるで精密機械のように、淀みなく動き続ける。額に汗が滲み、呼吸がわずかに速くなるが、私の意識は、ただひたすらにボールとラケット、そしてコートとの対話に集中していた。
「…………」
ふと、視線を感じた。集中は途切れない。その視線の主は部長、「部長 猛」先輩だった。
彼は、自身の基礎練習を終えたのか、少し離れた場所から、腕を組み、真剣な表情で私の練習を見つめている。
昼休みに見せた、あの珍しい困惑の表情は影を潜め、そこには純粋な卓球選手としての、あるいは指導者としての厳しい目が光っていた。
昨日の壮絶な練習試合の記憶が、彼の脳裏に蘇っているのかもしれない。
あるいは、私のこの常軌を逸したとも言える一人練習の意味を、彼なりに理解しようとしているのだろうか。
彼の隣には、あかねさんも立っていた。その手にはノートが握られ、時折何かを書き込んでいる。
彼女の視線は、私の手元、特にラケットを持ち替える瞬間の動きに集中しているように見えた。
昼間の出来事で、彼女は私の「情報処理システム」という言葉をどう解釈したのだろうか。私という存在への興味は、さらに深まっているのかもしれない。
私は、彼らの視線を意識の外へと追いやり、再びマシンとの対話に戻る。次は、より複雑なパターン。
ランダムなコース、ランダムな回転、そしてランダムなスピードで放たれるボール。
これに対応するためには、予測、判断、実行のサイクルを、何度も繰り返さなければならない。
パチン! カツン! シュッ!
裏ソフトの鋭い打球音、スーパーアンチの鈍い打球音、そしてラケットが空を切る音。
それらが、体育館の片隅で、私だけの不協和音のような、しかしどこか調和のとれたリズムを刻んでいく。
…持ち替えの際のグリップの角度、あと少し内側へ。スーパーアンチでブロックする際のインパクトのタイミング、僅かに早く。
私の脳内では、常に自己のプレーに対するフィードバックと修正が行われている。
これは、他者との打ち合いでは得られない、マシン練習だからこそ可能な、純粋な技術の追求。
どれくらいの時間が経っただろうか。
マシンのボール供給が止まり、私はようやくラケットを下ろした。全身は汗で濡れ、呼吸もかなり上がっている。
しかし、心地よい疲労感と、そして何よりも、思考のノイズが完全に消え去ったことによる、精神的な静寂が私を包んでいた。
「…静寂」
不意に、部長の声がした。いつの間にか、彼は私のすぐ近くまで来ていた。その表情は、先ほどよりも少し柔らかくなっているように見えた。
「お前のその練習…見てるだけで息が詰まりそうだぜ。だが、確かに、あれだけの集中力と精度がなけりゃ、お前みたいな『変態的』な卓球はできねえんだろうな。」
彼の言葉には、呆れと、そしてほんの少しの感嘆が混じっている。彼の言う「変態的」という言葉は、おそらく彼なりの最大限の賛辞なのだろう。
「…必要な訓練です。私の卓球は、常に最適化を求められますので。」
私は、息を整えながら答えた。
「ふん、最適化、ね…」
部長は、何かを納得したように、あるいは納得しきれないように頷いた。
「まあいい。お前がそれで強くなるってんなら、俺は何も言わねえ。だがな、静寂」
彼は、真剣な目で私を見据えた。
「一人でマシン相手にやるだけが練習じゃねえぞ。昨日の俺との試合で、お前も何か掴んだものがあったはずだ。違うか?」
彼の言葉が、私の心の奥底に、小さな石を投げ込んだ。
昨日の試合。
あの極限状態での攻防、私の「ムラのある技」
そして、彼の諦めない心。
確かに、そこには、マシン練習だけでは得られない「何か」があった。
それは、まだ明確には言語化できない、人間同士の駆け引き、予測不能な展開、そして…感情のぶつかり合い。
「…データは、収集できました。」
私は、そう答えるのが精一杯だった。
部長は、私のその返事に、ニヤリと笑った。
「そうかよ。なら、その『データ』とやらが、次の俺との勝負でどう活かされるか、楽しみにしてるぜ。」
彼は、そう言い残すと、他の部員たちの元へと戻っていった。
その背中には、やはり揺るぎない自信と、そして私への新たな挑戦状が叩きつけられているかのようだった。
「しおりさん、お疲れ様。」
三島さんが、そっとドリンクボトルを差し出してきた。彼女の瞳は、私のことを見守るような、温かい色をしていた。
「…ありがとうございます。」
私は、それを受け取りながら、彼女のノートに目をやった。そこには、私の練習内容だけでなく、部長との今の会話まで、細かく記録されているのかもしれない。
…この卓球部という場所は、私の「静寂な世界」を、少しずつ、しかし確実に、変えていくのかもしれない。
私は、ドリンクを一口飲みながら、遠くで部員たちに檄を飛ばす部長の姿と、真剣な眼差しでノートに何かを書き加えているあかねさんの姿を、静かに見つめていた。




