特別練習・開幕(2)
「はあっ、はあっ…!」
高坂選手の、荒い息遣いが、体育館に響く。
私との、高速でのオールコートラリーは、彼女の体力を、確実に、そして、じわじわと削り取っていた。私もまた、額に、うっすらと汗を浮かべている。
私は、ラリーを続ける手を、ぴたりと止めた。
「高坂さん。ありがとうございます。あなたのドライブのデータは、十分に収集できました」
私の、その、まるで実験の終了を告げるかのような、平坦な声。
高坂選手は、きょとんとした表情で、私を見つめ返した。
「次のフェーズに、移行します」
「次の…フェーズ?」
高坂選手が、訝しげに、私の言葉を繰り返す。
「はい。私の、サーブのバリエーションが、あなたのような、高いレベルのドライブマンに対して、どれほどの有効性を持つか、そのデータを収集します」
私は、そう言うと、ボールを手に取り、サーブの構えに入った。
そして、私は、意図的に、強烈な下回転サーブを出す時と、全く同じ、大きなテイクバックのモーションを取った。体を大きく捻り、ラケットを高く振りかぶる。
その、私の大きなモーションを見て、高坂選手が、ぐっと、腰を落とす。彼女の全身から、「強烈な回転を、全力で持ち上げてやる」という、闘志が、溢れ出している。
(…予測通り。彼女の思考ルーチンは、今、『下回転サーブへの対策』という、一つのモードに固定された)
だが、私は、その予測を、嘲笑うかのように、インパクトの瞬間、ラケットの面を、黒いアンチラバーに合わせた。
そして、ボールを「切る」のではなく、ラケットの面を、ほんのわずかに、前に「押し出す」。
「シュッ!」という、回転のかかっていない、空気を切る音と共に、ボールが、私のラケットから、放たれた。
それは、下回転とは似ても似つかぬ、高速の、そして、無回転の、ナックルロングサーブ。
ボールは、低い弾道で、一直線に、高坂選手の、バックサイド深くに、突き刺さった。
「なっ…!?」
高坂選手は、強烈な下回転を持ち上げるための、開いたラケット角度のまま、そのボールに触れてしまった。
回転のないボールは、彼女のラケットに当たった瞬間、まるで、その反発力に、素直に反応するかのように、ポーンと、コートの、遥か後方へと、高く、高く、飛んでいった。
エースだ。
「今の、ナックル…!?あの、大きなモーションから…!?」
高坂選手が、信じられない、といった表情で、私を見る。
私は、何も言わない。ただ、静かに、次のボールを、手にするだけだ。
そして、私は、再び、先ほどと、全く同じ、大きなテイクバックのモーションを取る。
高坂選手の表情が、今度は、迷いの色に染まった。「また、ナックルが来るのか?それとも、今度こそ、下回転…?」
(思考ルーチンに、エラーを注入。正常な判断能力を、奪う)
そして、私は、その、全く同じモーションから、今度は、インパクトの瞬間に、ラケットの勢いを、完全に殺し、そして、絶妙なタッチで、ボールを、そっと、ネット際に、落とした。
ナックルショートサーブだ。
「くっ…!」
ロングサーブを警戒し、少しだけ、台から距離を取っていた高坂選手。彼女は、慌てて、前に駆け込む。だが、間に合わない。
ボールは、彼女のコートで、二度、静かに、バウンドした。
またしても、エース。
「長いと思ったら、今度は短いの…!反則よ、そんなの…!」
高坂選手が、悔しそうに、そして、どこか、呆れたように、叫ぶ。
体育館の隅で、その光景を見ていた、未来さんの、静かな、しかし、興奮を隠しきれない、分析の声が、あかねさんの耳に届いていた。
「…完璧な、情報操作です。同じフォームから、正反対の性質を持つ、二つのサーブを繰り出す。下回転を警戒させ、実際にはナックルを。ロングを警戒させ、実際にはショートを。相手の思考の前提を、根底から破壊しています。これが、彼女が『魔女』と呼ばれる所以…」
私は、次のボールを、手に取る。
私の「実験」は、まだ、始まったばかりだ。
この、王道のドライブマンを、私の「異端」で、どこまで、破壊できるのか。
私の思考ルーチンは、次の、最も効果的な、一手を、冷徹に、そして、静かに、計算し始めていた。