帰り道
体育館の、高い天井に反響していたボールの音も、今はもうない。
私と未来さんは、二人きりで、黙々と後片付けを終えた。他の部員たちが帰ってしまった後の、がらんとした体育館、それは「静寂な世界」によく似ていた。
「…帰りましょうか」
未来さんが、静かに、そう言った。
「はい」と私も、短く応える。
私たちは、並んで、夕暮れの道を歩き始めた。沈みゆく太陽が、空を、そして私たちの影を、茜色に、長く、長く染め上げている。
会話はない。
だが、その沈黙は、決して気まずいものではなかった。
むしろ、高度な思考を続けた後の、心地の良いクールダウンのように、私の心を、静かに落ち着かせてくれた。
しばらく歩いたところで、未来さんが、ふと、私に視線を向けた。
「今日の練習本当に、興味深かったです。あなたのその発想力とそれを実現する技術には、いつも驚かされます」
彼女のその、心からの、そしてどこまでも真摯な称賛の言葉。
以前の私なら、それを、どう処理していいか分からなかっただろう。だが、今の私は、素直に、その言葉を受け止めることができた。
「…あなたの協力がなければ、あの戦術は、ただの机上の空論のままでした。特に、最後の『カウンターを常に意識させる体勢』というパラメータ。あれは、私一人では導き出せない『解』でした。感謝します」
私のその、分析的な、しかし、紛れもない感謝の言葉に、未来さんは嬉しそうに、ほんの少しだけ、微笑んだ。
そして彼女は、まるで、私の心の奥底を覗き込むかのように、静かな、しかし、核心を突く問いを、投げかけた。
「しおりさんは、どうして、そこまで新しい武器を求めるのですか?今のあなたの卓球でも、十分に、強いのに」
その問いは、私の、最も根源的な部分に触れるものだった。
私は、一度、空を見上げた。一番星が、淡く、瞬き始めている。
「…現状のシステムは、常に対策されるリスクが内在しています」
私の声は、いつものように、平坦だった。
「常勝学園の青木桜選手、そして、ブロック大会で当たるであろう、未知の強者たち。彼女たちは、必ず、私を分析し、そして、破壊しにきます。その時、私に、次の『手札』がなければ、そこで、終わりです」
「…終わり…ですか」
未来さんが、私の言葉を、静かに繰り返す。
「はい。私にとって、敗北は、単なる記録上の負けでは、ありませんから」
私は、そこまで言うと、口を閉ざした。それ以上は、私の世界の、誰にも踏み込ませてはいけない領域。
未来さんは、私のその沈黙の意味を、理解してくれたようだった。
彼女は、それ以上、何も聞かなかった。ただ、隣で静かに、私の歩調に合わせてくれている。
その、無言の共感が、私の、頑なに閉ざされた心の壁を、ほんの少しだけ、温めてくれるような気がした。
やがて、駅前の、大きな交差点にたどり着く。ここが、私たちの帰り道の、分岐点だ。
「では、私は、こちらなので。…また、明日、部活で」
未来さんが、そう言って、丁寧に、一礼した。
「はい。また、明日」
私も、同じように、頭を下げる。
彼女は、くるりと背を向けると、雑踏の中へと、その姿を、静かに溶け込ませていった。
私は、その姿が見えなくなるまで、しばらくの間、ただ、じっと、その場所から動けずにいた。
…幽基未来…、彼女といる時間は、私の思考ルーチンを、良い意味で、乱してくれる、彼女という変数が、私の世界に、どのような、新しい『解』をもたらすのか…。
…観測を、続けよう。
私の思考は、新たな、そして極めて興味深い、解析対象を見つけ出し、静かに、そして、確かに、その活動を再開していた。
それは、勝利のためだけの、冷たい計算ではない。
ただ、純粋な、知的好奇心。
未知の数式を、解き明かしたいという、その、渇望。
それが、今の私の心を、静かに、そして温かく、満たしていた。