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異端の白球使い  作者: R.D
特別練習編
262/674

カットマン

 リーグ戦の熱気が、まだ体育館の空気の中に、微かに残っているような、ある日の放課後。

 自主練習の時間。ほとんどの部員が帰り支度を始める中、私は、一人、ラケットケースを手に、体育館の隅で黙々と素振りをしている、幽基未来さんの元へと、足を向けた。

 彼女は、私の気配に気づくと、ラケットを振る手を止め、その穏やかな瞳を、私に向けた。その瞳の奥に、ほんのわずかな、しかし、確かな好奇心の光が灯るのを、私は見逃さなかった。

「どうかなさいましたか、しおりさん?」

 私は、真っ直ぐに、彼女を見つめ返した。

「未来さん。あなたの、質の高いループドライブが必要です。」

 私の、その、あまりにも単刀直入な言葉に、彼女は、少しだけ、興味深そうに目を細めた。

「ブロック大会に向けて、新しい戦術モデルの実用性を検証したい。そのためには、卓球マシンや、他の部員のボールでは、データとして不十分なのです。あなたの『生きたボール』でなければ、意味がない」

 私の、その、研究者が共同研究を申し出るかのような、挑戦的とも取れる言葉。

 未来さんは、その真意を、瞬時に理解してくれたようだった。彼女の唇に、ふわりと、柔らかな、そして、どこか知的な満足感を含んだ笑みが、浮かんだ。

「はい、もちろんです。しおりさんの、新しい戦術。私でよければ、最高の『データ』を提供しましょう」

 私たちは、体育館の、一番奥の卓球台へと向かう。ネットを挟んで、向き合う。

「アンチラバーと裏ソフトを併用した、カット主戦の守備戦術です」

 私がそう告げると、未来さんは、深く、そして嬉しそうに、頷いた。

 練習が、始まる。

 未来さんが、彼女の、あの安定した、しかし回転量の多い、質の高いループドライブを、私のコートへと送り込んでくる。

 私は、台から、一歩、二歩と下がり、カットの体勢に入る。私のフットワークに、一切のぎこちなさはない。頭の中の設計図通り、完璧なポジションに、私の体は移動する。

 未来さんのドライブが、私のバックサイドへ飛んでくる。私は、ラケットをアンチラバーの面に向け、ボールの下を擦るように、カットのスイングをする。放たれたボールは、ふらふらと、予測不能な軌道を描きながら、相手コートのネット際に、ストン、と音もなく落ちた。

 完璧な、ナックルカット。

 次のボール。私は、同じフォームから、今度は裏ソフトの面で、強烈な下回転をかけて、カットする。

 未来さんは、その二つの全く異なるボールを、驚くべき精度で、しかし、どこか楽しむように、打ち返してくる。

 ラリーが、続く。

 しかし、数本打ち合ったところで、私は、眉をひそめていた。

(…ダメだ。私のカットは、確かに、一球一球の質は高い。だが、未来さんには、通用していない。彼女は、私のラケットの面、スイングの微細な角度、それら全ての情報を瞬時に分析し、次のボールを、ほぼ完璧に予測している…)

 私のカットは、彼女を「幻惑」させるには、まだ、何かが足りない。このままでは、ただの、質の高い守備選手。私の求める「異端」の戦術とは、程遠い。

 その、私の思考を、見透かしたかのように、未来さんが、ラリーを止めた。

「しおりさん。あなたのカットは、一球一球が、とても完成されています。…ですが、もしかしたら、その『完璧さ』が、逆に、私に、次のボールを予測する、わずかな『時間』を与えているのかもしれませんね」

 彼女の言葉は、まさに、私が感じていた、この戦術の「壁」の正体だった。

「もし、よろしければ、カットの後の、あなたの体勢の戻りを、ほんの少しだけ、変えてみてはいかがでしょうか」

 彼女は、続ける。

「守備の体勢を維持するのではなく、常に、次のカウンター攻撃を狙っているかのような、少しだけ前傾した姿勢を。そうすれば、私からは、あなたの次の行動が『カットか、攻撃か』、その判断が、さらにコンマ数秒、遅れるはずです」

 その、あまりにも的確で、そして高度なアドバイス。

 それは、並の選手では、決して気づくことのできない、トップレベルの「読み合い」の世界。

 私の思考ルーチンが、その新しいパラメータを、高速で取り込み、戦術モデルを、再構築していく。

(…なるほど。『守備』の中に、常に『攻撃』の可能性を匂わせる。ブラフ(偽装)による、判断の遅延誘発…。合理的です)

「…もう一度、お願いします」

 練習が、再開される。

 未来さんのドライブ。私が、アンチで、ナックルカットを放つ。

 そして、私は、ボールが相手コートに渡った瞬間、守備の体勢を解き、一瞬だけ、フォアハンドで強打を狙うかのような、鋭い、攻撃的な体勢へと移行した。

「…!」

 台の向こう側で、未来さんの表情が、初めて、明確に、驚きに歪んだ。

 彼女の思考に、一瞬の「迷い」が生まれたのだ。「カットで返球すべきか?いや、カウンターが来るかもしれない!」

 その、コンマ数秒の迷いが、彼女の返球を、ほんのわずかに、甘くさせた。

 私は、その隙を、見逃さない。

 次の瞬間、私は、本当に、その守備の体勢から、一気に前に踏み込み、裏ソフトの面で、相手コートのオープンスペースへと、ボールを叩き込んだ。それは、私の基本戦術である「アンチで崩して、確実に仕留める」という、必勝パターンそのものだった。

 決まった。

 守備と見せかけ、相手の思考を幻惑し、そして、自ら攻撃に転じる。

 これこそが、私の求めていた、新しい戦術の、完成形。

「…素晴らしいです。しおりさん」

 未来さんが、心からの感嘆の声を漏らした。

「あなたの『異端』は、また、新しい扉を開きましたね。…大会で、その『幻惑の壁』を拝見するのが、本当に、楽しみです」

 その言葉は、同じ高みを目指す「研究者」としての、そして、同じ「異質」を抱える、仲間としての、心からのエールのように、私の胸に、温かく、響いた。

 ブロック大会への、新たな、そして最強の「引き出し」が、今、確かに、その形を成し始めようとしていた。


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