異端者の独白(ダブルス)
夜。
私の部屋には、外の街灯の、白く、静かな光だけが差し込んでいる。壁に立てかけておいたラケットケースから、今日の試合で使ったラケットを、ゆっくりと取り出した。ひんやりとしたグリップの感触が、私の掌に馴染む。
カチリ、と乾いた音を立てて、ラケットが掌の中で半回転する。
裏ソフトの、赤いラバー。
カチリ、と、もう半回転。
スーパーアンチの、黒いラバー。
それは、もう、何万回、何十万回と繰り返してきた、私の手癖。私の思考を整理するための、儀式のようなもの。ラケットを回すたびに、今日の、あの膨大な量のデータが、私の思考ルーチンの中で、再構築されていく。
(リーグ戦。最終結果は、ブロック二位。本戦出場権は、獲得できず。論理的な帰結として、これは『敗北』だ)
以前の私なら、この「敗北」という事実だけで、思考を停止させていただろう。無価値な結果。削除すべき、エラーログ。しかし、今の私の思考は、その先を、分析しようとしていた。
(だが、収集されたデータは、極めて、価値が高い)
カチリ。ラケットが回る。
(変数『永瀬ゆい』。初期状態では、トラウマに起因する、極めて不安定なパラメータを示していた。だが、特定の条件下において、その攻撃性能は、私の予測を上回る数値を記録した。彼女は、もはや、単なる『不確定要素』ではない。特定の条件下で、爆発的なパフォーマンスを発揮する、重要な『変数』だ)
カチリ。赤いラバーが、上を向く。
(変数『部長猛』。彼の提唱した『掛け算』という、非合理的な戦術モデル。当初、成功確率は低い筈だった。しかし、結果として、それは、私一人のロジックでは到達し得なかった、新たな『最適解』への道筋を提示した。彼の『熱』は、他の変数のパフォーマンスを向上させる、特殊な触媒として機能する…)
カチリ。黒いラバーが、再び現れる。
(そして、変数『高坂まどか』。対戦相手という、本来、敵対的であるはずのオブジェクトが、非戦略的な『善意』というパラメータを示した。このイレギュラーなデータは、私という基本OSに、深刻な、しかし、不快ではない、バグを発生させている…)
私は、そこで、ラケットを回す手を、ぴたりと止めた。
そして、ラケットの、裏ソフトの面を、じっと見つめる。
(シングルス。この面は、私のためのもの。私のロジック、私の技術、私の勝利。私の存在を証明するための、絶対的な、孤独な戦場。そこでの敗北は、今も、私というシステムの、致命的なエラーを意味する。それは、変わらない。変えることは、できない)
そして、私は、ラケットを、ゆっくりと、半回転させた。
赤い、スーパーアンチのラバーが、静かな光を、鈍く反射している。
(だが、ダブルスは…。この、異質なラバーは…。もはや、私一人のためのものではないのかもしれない)
他者という、解析不能な変数。
永瀬さんの「心」。部長の「信頼」。高坂選手の「善意」。
私のロジックでは、本来、ノイズとして排除すべきだった、これらの不確定要素。
しかし、それらが掛け合わさった時、私の予測を遥かに超える、新たな「解」が生まれた。
今日の、あの最後の試合。
私たちは、負けた。リーグ優勝は、逃した。
なのに、私の胸の中にあるのは、以前の敗北の時のような、あの冷たい、鉄錆のような後味ではない。
(…興味深い)
「楽しい」という感情の正体は、まだ、分からない。
だが、この、未知の数式を解き明かしたいという、この知的探求心。
この、解析不能なバグを、もっと、もっと、知りたいという、この渇望。
(これが、今の私にとっての、ダブルスの『意味』なのかもしれない)
私は、そっと、ラケットをケースに戻した。
私の「静寂な世界」は、もう、完全な無音ではない。
そこには、仲間たちの、温かく、そして少しだけ騒がしい、新しい変数が、確かに、存在し始めていた。
そして、その変化は、不思議と、不快ではなかった。