奇妙なノイズ
昼休みに発生した「部長」に関する認識システムのクラッシュは、私にとって、ここ最近で最も大きな想定外の事象だった。
彼の名字が「部長」であり、かつ役職も「部長」であるという二重性。
これらは、私のこれまでの対人関係における分析モデルに、新たな、そして非常に厄介なパラメータを複数追加した。
放課後、卓球部の練習が始まる時間になっても、私の思考の一部は、まだ昼休みの出来事を反芻し、エラー処理を続けていた。
体育館へ向かう足取りは、いつも通り一定のリズムを刻んでいるつもりだが、内心の計算リソースの大部分が、その「部長問題」に割かれているのを感じる。
体育館の扉を開けると、すでに数人の部員が準備運動を始めていた。
そして、その中心には、やはりあの「部長」…いや、正確には「部長という名字を持つ、部長という役職の先輩」の姿があった。
彼は、いつものように大きな声で部員たちに指示を出し、熱気あふれる雰囲気を作り出している。昼休みに見せた、あの珍しい困惑の表情は、少なくとも表面上は完全に消え去っているようだ。
彼の精神的なリカバリー能力は、私の予測を上回るほど高いのかもしれない。
「おーす、静寂! 今日も遅かったな! まあいい、アップはしっかりやっとけよ!」
彼は、私の姿を認めると、普段と変わらぬ調子で声をかけてきた。その声色や態度からは、昼休みの出来事を引きずっている様子は微塵も感じられない。
あるいは、彼はあの出来事を、単なる「ちょっとした面白いハプニング」程度にしか認識していないのだろうか。
人間の感情の機微というものは、やはり複雑で、私の分析モデルでは捉えきれない領域が多い。
…彼にとって、あの事象は既に過去のものとして処理された、と判断するのが合理的か。
ならば、私も同様に、この件に関する思考は一旦保留し、目の前の練習に集中すべきだ。
私は、内面の動揺を表面に出さないよう細心の注意を払いながら、彼に短く会釈し、自分の練習場所へと向かった。
しかし、思考のバックグラウンドでは、依然として「部長=名字かつ役職」というイレギュラーな情報が、他の情報との整合性を取るために処理を続けている。
これは、私がこれまでに経験したことのない、一種の「思考のノイズ」だった。
ラケットを取り出し、素振りを始める。いつものルーティン。
体の動き、ラケットの角度、ボールの軌道。それらを脳内でシミュレートし、最適化していく。
しかし、今日はどこか、その集中が散漫になりがちな自分を感じる。
「しおりさん、今日の練習メニュー、これなんだけど…」
不意に、あかねさんが声をかけてきた。
その手には、マネージャー用のノートと、今日の練習メニューが書かれた紙が握られている。
彼女の表情は、いつもの明るい笑顔だが、その瞳の奥に、昼休みの出来事の余韻と、私に対するほんの少しの好奇心と、そして気遣いが混じっているのを、私は見逃さなかった。
…彼女は、私の動揺に気づいている。そして、それを楽しんでいるわけではなく、むしろ心配している…?
これは、新たな観察データだ。
「…確認します。」
私は、彼女から練習メニューを受け取り、目を通す。
内容は、県大会に向けた基礎練習と、実戦形式のポイント練習。特に変わった点はない。
「あの…しおりさん。昼休みは、その…驚かせてしまって、ごめんなさい。」
あかねさんが、少し申し訳なさそうに言った。
「部長先輩、ああいう面白いところもあるんだけど、基本的にはすごく良い先輩だから…その、誤解しないでね?」
彼女の言葉は、私と部長の関係性を気遣ってのものだろう。
あるいは、私が「部長」という存在に対してネガティブな印象を抱いたのではないかと懸念しているのかもしれない。
「…誤解はしていません。ただ、私の情報処理システムが、予期せぬ変数に対応するのに、通常よりも多くのリソースを必要としただけです。」
私は、できるだけ客観的に、事実を伝えようとした。しかし、その言葉が彼女に正しく伝わったかどうかは、定かではない。
あかねさんは、私の言葉に一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「情報処理システム……?そそ、そっか!なら良かった! 今日の練習も、頑張ってね! 私も、しおりさんのプレー、しっかり見て勉強するから!」
彼女は、そう言って元気に自分の持ち場へと戻っていった。
(…勉強、か。)
彼女の言葉が、私の思考に新たな刺激を与える。
彼女は、私の卓球を、そしておそらくは私の「異端」とされる部分を、否定せずに理解しようとしている。
それは、私にとって、これまで経験したことのない種類の関わり方だった。
私は、再び素振りに意識を戻す。
だが、頭の片隅では、昼休みの「部長」の困惑した表情、あかねさんの楽しそうな(そして心配そうな)眼差し、そして自分自身の予期せぬ動揺が、まだ微かなノイズとして残響していた。
それは、私の「静寂」な世界に投じられた、小さな、しかし無視できない波紋だった。
この波紋が、今後の私の卓球、そして私の内面に、どのような影響を与えていくのか。それはまだ、予測不能な未来の領域だ。
しかし、一つだけ確かなことがある。
それは、この卓球部での日々が、私の分析モデルを、そして私自身を、少しずつ変えていくのかもしれない、ということだった。




