タイムアウト
スコアは、5-2。私たちのリード。
このセットに入ってから、私の思考は、部長の言う「実験」と、私自身の「ロジック」の融合という、新たなテーマの解析に費やされていた。
攻撃的なチャンスメイクを試すことで、より質の高いチャンスボールを永瀬さんに提供する
私の思考ルーチンは、この新しい方程式に、ある種の満足感を感じていた。
その、完璧な流れの、まさに最中だった。
「――タイム!」
ベンチから、部長の、大きく、しかし、どこか焦りのようなものが混じった声が響いた。
私と永瀬さんは、一瞬、顔を見合わせる。永瀬さんの瞳には「え、今?」という、純粋な戸惑いが浮かんでいる。
(…タイムアウト?この、流れが良い局面で?なぜ?自ら流れを断ち切り、相手に思考時間を与える。合理的な判断とは思えない…)
私の思考が、彼の不可解な行動の意図を分析しようと試みる。
ベンチに戻ると、部長は、タオルとドリンクを差し出しながらも、その表情は、リードを喜ぶものではなかった。むしろ、深い、深い憂慮の色が浮かんでいる。
「永瀬、ナイスプレーだ。素晴らしいぞ。少し、呼吸を整えろ」
「は、はい…!」
永瀬さんは、彼の言葉に、嬉しそうに頷く。
そして、部長は、その心配そうな瞳を、私へと向けた。
「…しおり。」
彼は、慎重に、そして、探るように、言葉を選びながら、私に問いかけた。
「さっきから、お前の動きが、また少しずつ、前の試合の時のように、鋭く、そして冷たくなっているように見える。…まさかとは思うが、また、お前一人で、全部やろうとしてるんじゃないだろうな?」
彼のその問いかけ。それは、私の変化を、的確に捉えていた。
だが、その解釈は、根本的に、間違っている。
私は、彼のその心配を、一蹴するように、ほんの少しだけ、心の底から呆れたようなため息をついた。
「…部長。リードしているこの最良の局面で、自ら流れを断ち切り、相手に思考時間を与える。その貴重なタイムアウトを、一体、何のために?…本気で言っているのですか。間抜けなんですか?」
「なっ…!ま、間抜けとはなんだ!」
私のその、容赦のない、しかし平坦な声で放たれた言葉に、部長が狼狽する。
隣で、そのやり取りを聞いていた永瀬さんが、小さく「…部長さんは…間抜け…?」と、ほとんど聞こえないような声で呟いた。彼女の中で、絶対的な存在であったはずの部長の判断に、小さな疑問の芽生えた瞬間だった。
私は、彼の狼狽など意に介さず、淡々と、私の分析結果を告げた。
「見ていなかったのですか?相手ペアは、第二セットの開始直後、既に私たちの初期戦術に対応し始めていました。だから、私は、戦術を、次のフェーズに移行させていただけです。つまり、私が、より質の高い、相手の予測を超えたチャンスメイクを行い、それを永瀬さんが仕留める、という、より成功確率の高いパターンへと」
私のその、あまりにも冷静で、そして揺るぎないロジック。
それを聞いた部長は、一瞬、きょとんとした顔で私を見つめ、そして、次の瞬間、全てを理解したようだった。
彼の顔から、心配や、狼狽の色が、すっと引いていく。
そして、私は、そんな彼に、とどめを刺すように、ほんのわずかに、口の端を吊り上げてみせた。
「私が状況を分析し、相手の対策のさらに上を行く、より質の高いチャンスを永瀬さんに供給する。そして、永瀬さんが、それを信じて打ち抜く。」
「――これが、部長の言う『チームワーク』、なんでしょう?」
私のその、皮肉とも、真理とも取れる言葉に、部長は、今度こそ、ぐうの音も出ない、といった顔で、ただ、私を見つめ返すだけだった。
だが、その瞳に宿っているのは、もう、困惑ではない。
彼は、腹の底から、堪えきれないといった様子で、豪快に笑い出した。
「はっはっはっ!そうか、そうだよな!お前の言う通りだ、しおり!」
彼は、バンバンと、自分の膝を叩いて笑っている。
「参ったな、こりゃ!俺の言った、よく分かんねえ精神論を、お前は、お前なりの理屈で、戦術に昇華させやがった!悪かった、しおり!俺の早とちりだ!お前は、ちゃんと、いや、俺の想像以上に、ちゃんと『チーム』で戦ってたんだな!」
彼のその、手放しの、そして心からの称賛。
その言葉に、私の胸の奥が、ほんのわずかに、温かくなるのを感じた。
「最高だよ、お前たちは!」
インターバル終了のブザーが鳴る。
私は、立ち上がり、コートへと向かう。
そうだ。これでいい。これこそが、私の、そして、私たちの見つけ出した、現時点での「最適解」なのだから。
そして、その「最適解」が導き出す勝利の味は、もう、あの鉄錆のような、冷たい味だけではないのかもしれない。