本当のダブルス(2)
静寂・永瀬 2 - 2 高坂・松本
サーブ権が、私に移る。スコアは2-2のイーブン。
私の思考は、目の前の好敵手、高坂まどか選手の分析と、そして、ベンチから送られてくる部長の、あの「熱」に満ちた視線の狭間で、激しく揺れ動いていた。
(…この状況で、最も効率的に点を取るための最適解は、YGサーブからの3球目攻撃。あるいは、あの超低空ナックルロングサーブでの奇襲。成功確率は、共に70%以上)
私の脳は、勝利への最短ルートを即座に弾き出す。
だが、部長の言葉が、そのロジックに待ったをかける。
『永瀬を信じて、俺を信じて、ただ、目の前のボールを打つことだけに集中しろ』
(…信じる。定義の曖昧な、非論理的なパラメータだ。だが、契約は契約。この『実験』のデータを、私は収集する)
私は、意を決し、ラケットを高く振りかぶった。
私の、全てのサーブの起点となる、大きなテイクバック。このモーションから、相手の思考を停止させる「異端」のサーブを、私はいつでも放つことができる。
高坂選手の体が、私のそのモーションに、ピクリと反応するのが分かった。彼女は、私のあらゆる変化を警戒している。
しかし、私がそこから放ったのは、あまりにも「普通」で、そしてあまりにも「凡庸」な一球だった。
インパクトの瞬間、私は手首の動きを完全に固定し、裏ソフトのラバーで、ボールの真下を、鋭く、そして正確に捉える。
放たれたのは、ただ、質の高い、強烈な下回転をかけたショートサーブ。
それは、永瀬さんへの信頼の証であり、そして、部長の戦術の、忠実な遂行だった。
レシーバーの高坂選手は、そのサーブに対し、一瞬だけ、私の意図を測りかねるような表情を浮かべたが、すぐに冷静に対応する。彼女は、その強烈な下回転に対し、安定したツッツキで、私のパートナー、永瀬さんのバックサイド深くへと、低く、厳しいボールを返球してきた。
3球目を打つのは、永瀬さん。
彼女は、その厳しいボールに対し、一歩も引かなかった。インターバルでの私の言葉、そして部長の激励が、彼女の恐怖を、ほんの少しだけ、勇気へと変質させているのかもしれない。
「…っ!」
短い気合と共に、彼女は膝を深く使い、その下回転ボールを、安定したループドライブで持ち上げる!ボールは、山なりだが、回転量の多い、いやらしい軌道で、相手コートの真ん中へと返っていく。
それは、決して決定打ではない。だが、確かに、ラリーを「繋いだ」一球だった。
4球目。高坂選手のパートナー、松本選手が、そのループドライブを、コンパクトなバックハンドブロックで、私のフォアサイドへとコントロールしてくる。
5球目を打つのは、私。
私の思考ルーチンが、即座に最適解を提示する。「ここでスーパーアンチに持ち替え、デッドストップをネット際に落とせば、高い確率で相手の体勢を崩せる」と。
だが、私は、その最適解を、再び「棄却」した。
部長の「実験」を、続ける。
私は、裏ソフトの面のまま、そのブロックボールに対し、今度は強烈なサイドスピン(横回転)をかけたドライブを、相手ペアが最も反応しにくい、二人の真ん中へと、深く、そして速く打ち込んだ。
それは、自分自身で点を取るための一打ではない。永瀬さんという、次の打者のために、より有利な状況を作り出すためだけの、布石の一打。
6球目。高坂選手が、その鋭いサイドスピンに体勢を崩されながらも、懸命にラケットを合わせる。だが、彼女の返球は、もはや威力もコースも甘く、ふわりと、永瀬さんのフォアサイドへと浮き上がった。
絶好の、チャンスボール。
「――はあああっ!」
永瀬さんの、あの第二セットで見せた、獣のような咆哮が、再び体育館に響き渡る。
今度、彼女の瞳に宿っているのは、もはや「怒り」だけではない。
仲間への、そして、自分自身への「信頼」の光が、確かに、そこにはあった。
彼女の振り抜いたフォアハンドスマッシュは、一点の迷いもなく、相手コートのオープンスペースへと、閃光のように突き刺さった。
静寂・永瀬 3 - 2 高坂・松本
「よしっ!それだ、永瀬!しおり!それがダブルスだ!」
ベンチで、部長が、立ち上がって拳を突き上げているのが見えた。
永瀬さんは、肩で大きく息をしながらも、その顔には、これまで見せたことのない、誇らしげな、そして心からの笑顔が浮かんでいた。そして、その視線が、私に向けられる。
私は、彼女に、ほんのわずか、本当に、自分でも気づかないくらい、小さく、頷き返したのかもしれない。
私の思考ルーチンが、この「非効率的」な勝利に対し、新たな、そして解析不能な「温かいデータ」を、記録し始めていた。