修復への一手
リーグ戦の、あの第三試合が終わってから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。体育館の隅にある、私たちの控えスペースは、他のチームの賑やかな昼食の風景とは完全に断絶された、冷たい静寂に包まれていた。
永瀬さんは、ベンチの端で、膝を抱えるようにして座っている。彼女の前に置かれた弁当には、ほとんど手が付けられていない。その瞳は、焦点が合わず、ただ、体育館の床の木目を、ぼんやりと見つめているだけだった。第二セットで見せた、あの怒りの炎は、今はもう、燃え尽きた後の、冷たい灰のようにしか見えない。
私は、その隣で、栄養バランスだけを考慮して詰められた、彩りのない弁当を、機械的な動作で口に運んでいた。タンパク質、炭水化物、脂質。身体機能維持に必要な、ただのエネルギー源。私の思考は、既に、このリーグ戦の最終戦、そしてその先に待つであろう、決勝トーナメントの対戦相手の分析へと移行している。
隣に座る、壊れてしまった「駒」の存在は、私の思考ルーチンにおいて、もはや処理済みの過去データに過ぎない。
その、重く、冷たい沈黙を破ったのは、やはり部長だった。
彼は、私たちから少し離れた場所に座り、ほとんど手をつけていない自分の弁当と、私たち二人を、交互に、そして何度も、痛ましそうな、そして何かを必死に堪えるような表情で見ていた。やがて、彼は、意を決したように、ゆっくりと立ち上がり、私の前に立った。
「…なあ、しおり。」
彼の声は、いつものような大声ではない。静かで、そして、どこか震えているように聞こえた。
「…勝って、嬉しいか?」
その、あまりにも単純で、そして人間的な問い。私の思考ルーチンが、その問いに含まれる「嬉しい」という、定義の曖昧な感情パラメータの解析に、一瞬だけ、フリーズした。
「…『嬉しい』という感情は、勝利という結果に対する副次的な、非論理的な反応です。重要なのは、目的が達成されたという事実です。」
私は、顔を上げずに、箸を動かしながら、平坦な声で答える。
「そういうことじゃねえ!」
部長の声が、少しだけ強くなる。彼の影が、私の弁当の上に、暗く落ちた。
「俺が聞いてんのは、お前自身の心のことだ!さっきの試合、お前、楽しかったのか?永瀬をあんな風にして、相手を叩きのめして…お前の心が、本当にそれで満たされるのかって聞いてんだ!」
彼の、必死の問いかけ。その言葉に含まれる「熱」が、私の「静寂な世界」の壁を、再び、そして執拗に叩く。
(楽しい…?卓球が…?そのパラメータは、いつから私の思考ルーチンから削除された…?)
ほんの一瞬だけ、本当に、ほんの一瞬だけ。
私の脳裏に、埃っぽい土間で、祖父と、他愛なくボールを打ち合っていた、遠い日の記憶が蘇りそうになる。あの時の、何の計算も、何の勝利への渇望もない、ただ、ボールがラケットに当たる感触だけが楽しかった、あの時の…。
だが、そのノイズは、すぐに、より強力な論理によって、上書きされる。
(…無意味だ。楽しさなどという、不確定な感情に、価値はない。勝利こそが、絶対。それ以外は、全て、排除すべきノイズだ)
私の心の壁に生じかけた、ほんの小さな亀裂は、即座に、より厚く、そしてより冷たい氷壁によって、修復された。
私は、ゆっくりと顔を上げ、彼のその、必死な瞳を、私の、感情のない、ガラス玉のような瞳で、真っ直ぐに見つめ返した。
「部長。あなたの問いは、定義の曖昧な、感情的パラメータに依存しすぎています。私の目的は『勝利』。そのための最適解を実行するだけです。『楽しい』かどうかは、勝利確率に影響を与えない、無価値な変数です。」
そして、私は、冷徹に、そして決定的な一言を付け加えた。
「これ以上の非生産的な対話は、次の試合への分析リソースを浪費するだけです。もし、他に合理的な議題がないのであれば、私は自分の分析作業に戻ります。」
私のその、あまりにも鋭く、そして人間的な感情を完全に切り捨てた言葉に、部長は、今度こそ、言葉を失ったようだった。彼の顔から、血の気が引き、その表情には、怒りでも、悲しみでもない、ただ、どうしようもなく分厚い壁の前に立った時のような、深い、深い徒労感が浮かんでいた。
彼は、何かを言いかけて、しかし、その言葉が、もはや私には届かないことを悟ったのだろう。力なく、肩を落とし、そして、自分の席へと、重い足取りで戻ろうとした。
だが、部長は、二、三歩歩いたところで、ぴたり、と足を止めた。
そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらに振り返った。
その瞳には、先ほどまでの徒労感はない。代わりに、その奥底で、何かが、再び、赤く、そして激しく燃え上がろうとしていた。彼の脳裏に、一体何がよぎったのか。風花さんの、あの日の顔か。あるいは、後藤選手との、あの再会の誓いか。
「…待て、しおり。」
彼の声は、静かだった。しかし、その静けさは、嵐の前のそれだ。
「お前の言う『効率』だの『ロジック』だのは、もういい。反論する気も失せた。だがな」
彼は、一歩、私に近づく。
「お前は、一つ、とんでもねえ計算ミスをしてるぜ。」
(…計算ミス?私が?)
私の思考ルーチンが、彼のその言葉に、初めて明確な興味を示す。
「永瀬は、『駒』じゃねえ。俺も、あかねも、そうだ。俺たちは、お前の計算通りには動かねえ、心を持った人間なんだよ。そして、お前自身もな!」
彼の声に、再び熱がこもる。
「お前なら、もっと上手くできる!お前ほどの頭脳と技術があるなら、永瀬の力を引き出して、もっととんでもねえ化学反応を起こせるはずなんだ!ただ相手を支配するだけじゃない、二人で、本当の意味で相手を圧倒するような、そんな卓球が!それこそが、お前たちが目指すべき『最適解』じゃねえのか!?」
彼の、魂からの問いかけ。それは、私の思考ルーチンを再び激しく揺さぶる。だが、私の導き出す答えは、変わらない。
「…部長。あなたのその『掛け算』の理論は、感情的な希望的観測に基づいた、非合理的なものです。パートナーという変数は、常にエラーとノイズを内包している。最も確実な勝利への道は、制御可能な、私自身のパラメータのみを利用すること。それが、最短効率です。」
私のその、揺るぎない拒絶の言葉。
それを聞いた部長は、ふっ、と息を吐き、そして、ニヤリと、どこか吹っ切れたような、挑戦的な笑みを浮かべた。
「…分かったよ。お前がそこまで言うなら、次の試合、証明してやる。」
「…?」
「お前のその『最短効率』の卓球が、本当に正しいのかどうか。そして、俺も、俺の信じるやり方で、お前たちの卓球を、チームを、立て直してみせる。」
彼は、信じられないような提案を口にした。
「次のリーグ最終戦…お前たちは、俺の指示だけで戦え。」
「…!」
「しおり、お前は一切の分析と指示を禁止する。ただ、俺の言葉と、永瀬を信じて、ラケットを振れ。それで負けたら、俺が全ての責任を負う。だが、もし、そこでお前のロジックを超えた『何か』が生まれたら…その時は、お前のそのひねくれた考え、少しは改めてもらう。」
彼は、私に、挑戦状を叩きつけたのだ。彼の「熱血」と「信頼」が、私の「静寂」と「論理」に。
「どうだ、この『実験』、乗るか?――静寂しおり。」
彼のその、真っ直ぐで、そしてあまりにも熱い瞳から、私は、もう、逃れることはできなかった。